元保健婦は記憶力抜群!

 賞子さんは、昭和12年から13年の間 飯富で裁縫の勉強し、その後東京に出て、昭和14年から20年の間に東京女子医大付属の産婆・看護婦養成所に5年間通い、日本赤十字東京支部保健婦養成所で1年弱勉強しました。そして、山梨県が目黒区の学童疎開を受け入れするのにしたがって、保健婦として甲府に行き、そのあとも周辺のいろいろな土地を巡る中で終戦を迎えました。
 そして昭和26年から昭和29年まで本建村保健婦として3年半働きました。その後昭和29年東京電力が新しい制度として、雇用することになった保健婦の一員として、社員の健康管理を定期的に行う仕事をし、昭和58年定年を迎えるまで働き続けました。
 現在はしていませんが、編み物もよくやっていたそうで、東京電力の社員に祝い事があるときや、転勤になる方に自分で編んだものを挙げたりしたそうです。素敵ですね。
 新倉の斜面の部分が昔からお住まいの住宅ですが、昇り降りのかなり難儀な斜面部分から、下に移り住んで来ています。持っていた畑は耕す人が足らなくなってからは、梅やゆずを植え、その後に現在は檜を植えてあります。
 お仕事をやめてからは、もっぱら家の管理をしているそうです。上にある家の管理は風通しをよくしたり、蜂などから家を守るため、消毒をしたり、屋根を銅板に張り替えたりと、日常の作業からお金のかかることまでとても大変なようです。
 自分の歴史を事細かに覚えている賞子さん、ほんとにすごいと思いました。これからも自分史を長く作っていって下さい。

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賞子さん

居住地 三里地区 新倉
取材日 2001/12/06