林業一筋の誇り

 「お仕事は、何をなさっていたのですか?」こちらの問いかけに、最初「仕事なんていろいろやったさー。」と答えた勝進さん。実は林業一筋に生きる山の男だった。
 自営で、雨畑地内のみならず、県内一円の木を伐った。自動車がほとんど走っていない頃は、大きな材木はトロッコで出した。流送といって、川を流すこともあった。川の水が少ない時は、木材をダムのように組み、一気に崩すことで流したりもした。
 林業、特に早川の林業が、戦後の逼迫した県財政を支えたような時代もあった。広大な恩賜林のおかげである。当時は、木を一本切れば、無駄にする所なく利用できた。一番先の、細い葉っぱの部分は、瓦をいぶすのに使った。小枝は、薪にしてあんこ屋や製紙屋に売った。ちょっと太いような部分は、魚や野菜などを入れる木箱の材料(製函材)にした。そして、一番いい、太い幹の部分は建築材である。製函材や建築材にならない部分は、くだいてチップに加工した。「適材適所ということさ。」
 勝進さんは、木を伐っただけではない。造林もする。「山をカラ山(はげ山)にしてはダメだ。木のある山にしなければ。」山の木が、ライフラインを支えているのだと勝進さんは力説する。水は全て木のおかげだ。今でこそ燃料はガスや石油系の資源が主流だが、30~40年前までは山から取ってくる薪が燃料だった。電気だって、山の木々が蓄えた水を利用した水力発電が生み出している。今の人もちゃんと、水や電気がどこから来るのか考え、山を大切にする気持ちを持って欲しい、と。
 例えば、国には、水源税ということを考えて欲しいと思う。また、現在は輸入材の価格の安さに押されて、県産材や国産材が価値を失っているが、質で比べたら、10年20年しかかからないで育っている輸入材より、100年かけて育った国産材の方がずっといい。そういう国産材の価値を見直して欲しい。
 終戦後、この辺りでは田んぼがなく、山作(焼畑)をやって食っていた。山作は、薪を取った後を燃したりしておこなう。小豆や粟、黍を作り、時には静岡方面や県内の米産地と物々交換したりもした。静岡県からは塩や干した魚がやってくる。県内の、竜王や昭和辺りからは米が来る。こちらから出す作物は、小豆が人気だったという。山作は、だいたい50年くらい前にやめてしまった。でも、野菜は自分のところで作っている。今の人は、加工食品ばかりでほんとうの味を知らないし、いつ何が取れるかもわからない。四季折々に収穫したものが一番おいしいのに、ほんとうの味を知らない若い人はかわいそうだと思う。
 勝進さんは、理想と現実の差について語るのが好きだし、若い人にもそういうことを考えて欲しいと思っている。今回お話ししていただいた中で、もっとも印象的だったこと。「木を育てるのは子どもを育てるのと同じだ。木や子どもが育つのは育てている個人の楽しみでもある。そして、長期計画でないと立派には育たない。」
 勝進さんが自分の考えをはっきり話すのは、林業の現場で培ってきた経験に自負があるからだ。山と、そこにある木、そして林業という仕事に誇りを持っていることが伝わってくる。山林の重要性が再び見直されている昨今、勝進さんの言葉に、多くの人が頷くに違いない。

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勝進さん

居住地 硯島地区 馬場