古いものを大事に使う
「このへんのひとは苦労したもんだ。父はトロッコの仕事もしていてね、昔はこの初鹿島内でもトロッコの馬小屋が何軒かあったのを憶えているね。そのときのトロッコのレールが今でもこの家の屋根に乗っかっているよ(写真がそれ)。」今の道路よりもアップダウンはあるし、くねくね曲がっていたから、事故もあり苦労したそうだ。同じ初鹿島区でも、ここからさらに山を越えたところの夏秋の人たちはもっと苦労したという。
ちょうどこの家の裏が夏秋集落の更に上にあった一軒家に行く道で、その人は木炭を背負ってきて、また1時間位かかって帰る訳で、「茶でも飲んで休んで行けし」と言うと「日が暮れるまえに帰らんといかんから、また次に」といっていつも急いで山道を帰って行った、と父から聞いたという。
薫さん自身も小学校2,3年頃までお盆の17日に一軒家のすぐ上の妙法二神という神社で相撲大会が開催され、この山道を通った記憶があるそうだ。
「優勝したら景品がもらえてな、長靴とかだったが、当時では長靴も貴重でな、それがもらいたくて、そら一生懸命相撲とったもんだ。」
「ここで生活する人は山から生計を求めていたんだ。雑木を炭にすると重さが1/6くらいに軽くなり、運びやすいからな。農業は自給自足、米なんて盆や正月くらいしか食えなかった。初鹿島と差越集落の間で焼き畑を耕し、小麦、そば、大豆なんかをつくっていたよ。甘いものなんかほとんど食えなかったな。それでも家の前の沢までウナギや鰍がどんどんのぼってきたから、タンパク質はとれていたな。鰍の卵をとったりもしたよ。でも鮎はいなかったな。」
早川本流は、水量も豊富で、波をうつほどであったという。川は小学校時代は遊び場であり、先輩によく川に放り込まれたそうだ。意地悪な先輩は、川からあがろうとするとまた放り込むという。その繰り返しで、結局対岸まで泳ぐしかない。そうやって鍛えられたそうだ。たしかに薫さんは今でもたくましい体格だ。意地悪な先輩も、卒業する頃には山の中にあるおいしい柿のある場所などを教えてくれるそうだ。
100年以上まえに建てられた自宅を何年もかけて改修した。その言葉からは、「生きている間はこの家を守り続ける」という覚悟が伺える。家の外を見ると、もう20年近く乗っている、古い車が止めてある。
「維持費も結構かかるから、新しいのを買った方が安いかもしれんな。しかもこの車に乗っとると、古すぎて目立つから、どこを走っていても知人はすぐに自分だと分かってしまうんだ」
といって笑っていたが、古いものを守っていく、大事に使い続けるということの大切さを教えてくれたような気がした。
薫さん
居住地 | 本建地区 初鹿島 |
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取材日 | 2002/08/03 |
取材者名 | 遊佐 敏彦 |