ドラマティック

 「どう?早川は」急須のお湯加減を確かめつつ、にっこにっこしながら静江さんは問いかけた。お水と空気、これは早川でも本当に自慢できるものだと言う。早川の美味しい水でいれたきれいな緑色のお茶を飲むと、心がほっとあったかくなった気がする。「教育と仕事の問題が一番大きいのよね」静江さんはもう今年で60歳になるとそうだが、僕の母親ぐらい(現在50歳)に見えるのは、きっと笑顔がたえないからなのだろう。
 静江さんは、旦那さんの勝信さんと建設会社を営んでいる。結婚されてからは勝信さんのお勤めで大阪にいらした。しかし結婚2ヶ月の時、今の会社を当時経営していた父親とおじが交通事故で亡くなり、ひとり身で早川に戻ってきたそうだ。静江さんは結婚する前から会社を手伝っていたので、そのときの大変な苦労を思うと、逃げ出したくもなったと言う。25歳の時である。「外交面はあたししかできなかったから」夢半ばに先立った父とおじ兄弟の事を思うと、逃げられない使命感があった。
 若い女の子にとっては、考えられないようなプレッシャーの日々だっただろう。銀行もなかなか融資をしてくれない。頭を下げても下げてもズタズタになるばかり。役所に出入りするのも辛かった。「実績をつくって信用を築くしかない」そう思いつづけて頑張ってきたそうだ。死にたいと思ったことも何度かあったという。でも、「親戚の人の、言葉では言い表せない程の支援を受け、又、現場で働く人からも励ましをもらい、何とか頑張ることが出来ました」という。時折近所のおばあちゃんからいただく野菜には、本当に心が安らぎました、とも。
 「あの頃苦しかったけど、今はもう何でもない。辛いことってあまり思い出さないのよね、楽しいことばっかり思い出すの」今のことを思うと過去の事はみんな有難いと言う。前向きな性格だからこそ頑張ってこられたし、いざというときにまた頑張れるのだろう。 /ボロは着てても心は錦/ 水前寺清子の歌がその頃のテーマソングだったと言うが、「泣くのは一週間」もっと早く気付けば良かったというその言葉からも、静江さんの前向きな姿勢が伺える。生きてきた中で感じることは、誠意、真心が一番だということ。そして、自分に負けないこと。いつも心にとどめておきたいな。
 時折涙を見せる場面もあった。そんな苦労を重ねてきた静江さんは、勝信さんに本当に感謝していると言う。「だってふつう離婚するでしょう」静江さんが戻ってから3年を単身で過ごし、その後も一緒に頑張ってくれた勝信さんこそが本当にいい人なのだそうだ。
 その時、勝信さんが防災訓練から帰ってきた。現在、本業の他に保区の区長代理者もなさっているそうだ。代理者の仕事はいろいろあるが、その中のひとつにせぎの水の管理がある。大雨のあとは流木がせぎの入り口に詰まり、水量が減ってしまうことがある。そんな時は、本来、集落の人々に声をかけ、「せぎぶしん」をやるものだそうだが、老齢化でそれも出来ず、自分の会社の重機で作業をしているそうだ。そんな状況の中、代理者など跡取りの人材のなさを痛感する様子。「防災訓練も、きているのはおばあちゃんがほとんど。」保区民82、3人中、選挙権がない子供が4人だけという現状には、少し苦笑したりもしていた。
 若いうちのUターンは無理だろうが、定年後、都会から入ってくる人材に期待がある。「60歳って言ったって、この部落じゃまだ若者だから」60歳過ぎても十分体は動くし、先祖が残した田畑を守りながら野良仕事を楽しみ、この集落のことを考えていき、引っ張っていってほしいという思いがあるそうだ。
 こっちに越してきたとき気苦労とかはなかったですか? という質問にも「別にどうもしていない」と言う。「サラリーマンから経営者になったってのはあるけど」もともと中富の出身だそうで、早川町のことをよく知っていたこともあるだろう。しかし、穏やかな笑顔と貫禄のある風貌を見ると、静江さんの苦労話も受け入れてしますような懐の深さを感じた。少し意外で笑ってしまったのだけれども。
 一緒に苦労をしてきたからなのだろうか、それだけではないかも知れない。でもこのお二人なら自然に前向きな姿勢になるのだろう。静江さんはこのエピソードをいつか書きたいといいます。本当に前向きだ。いつまでもいつまでも。この二人には、そんな気がどうしてもしてしまう。

  • ドラマティック
  • ドラマティック

静江さん 勝信さん

居住地 都川地区 保
取材日 2001/09/02