昔話で未来を見る

 武一さんは現在79才。高住に生まれ育ち、兵隊を経験してから東京で建設業に就き、早川町に戻って土木業で電力関係の仕事を経た後、今の平穏な生活を得ました。
 当時は「ひじろ」と呼ばれる囲炉裏のようなものが家の暖房の主流で、そのための薪拾いは子供の仕事でした。昭和30年代になるとプロパンガスが登場して、しばらくは併用するようになり、後にガスが主流になって現在のようになったそうです。こうした燃料の変化は、一見すると他の町より遅れているようですが、武一さん曰く、正確には「遅れていた」のではなく「進まなかった」のだとか。この辺りは山に囲まれているため薪の入手が非常に容易で、また自分の山に限らず、枯れ木であればどこから取っても文句は言われなかったため、わざわざお金をかけてガスに移行する必要性が薄かったのだといいます。
 新倉発電所の建設が始まる頃になると、県道沿いにトロ(資材を運ぶための馬引きトロッコ)が登場します。上はもちろん新倉以北まで、下は下山の早川橋(現在の早川町の入り口近くにある橋)付近にあった富士川水運まで延びていたのだそうです。子供たちはトロッコを坂の上まで押し上げ、一気に滑り降りて遊んだそうですが、これはよほどタイミングを計らないと、大人たちにすぐさま見つかってこっぴどく怒られたとか。当時は子供に対する大人の態度が今とは違い、どんなにイタズラしても本当に危ないことをした時以外は黙っていたけれど、本当に危険な行為には、例え知らない家の子供だろうと飛んできて叱ってくれたとか。しかし、子供に対するこうした地域の教育システムは、既になくなって久しいようです。
 武一さんは教育に対してとても深い考えを持っています。「教育は親が子供に残せる、最高のもの」それが武一さんの信念です。どんなにお金を残しても、親がいなくなって何に使うかなんてわからない。物や財産を残したって、売ってしまうかもしれない。しかし教育費は、親が使った分だけ、子供の頭に知識という形となって必ず一生残るもの。他のものと違って他人に盗られることも、うっかり無くすこともない。話を伺うにつけて、取材班もなるほど‥‥とうなずくばかりでした。
 早川町の教育の現状についても、国語、算数といった個々の教科学習はともかくとして、純粋に人数の問題からして正当な競争は無理な段階にきてしまっている。教員の確保にしても、これからは自分たちのお金を使わなければ揃わない。おまけに子供の送り迎えにかかる親の負担も大きくなる一方というのでは、将来への展望が見えない。こうしたことは、ほとんどが行政が本気になって考えれば、すぐになんとか出来るような問題であるはずだと熱弁をふるわれました。
 最後に、武一さんは取材班に向き直り、私たちに助言を下さいました。今、町にいる人は外の世界をあまり見てきていない。外から来た君たちの目で見れば、過疎の理由なんて明らかなはず。我々地元の年寄りが語る昔話こそ、将来を見通す定規にもなり得るもの。ただ面白いと思って聞いているだけでは足りない。私感を含ませずに町のありのままを調査し、分析すれば、早川町の将来がはっきり見えてくると思う。本当の意味で警鐘を鳴らすことができるのは、君らだけなのかもしれない、と。
 「30年後、君らが話を聞いた家々がどうなってるか、必ず見に来て欲しい」そう言う武一さんに、私たち取材班は再来をお約束し、自分たちの活動を見つめ直しながらお宅を後にしました。

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武一さん

居住地 本建地区 高住
取材日 2002/12/14
取材者名 小宮 一穂