榑坪の八十余年‐水不足から蜂蜜まで‐

 高齢者が多い榑坪だが、義作さんは「若い衆(し)が多い」と言う。その義作さんが大正8年生まれの84歳、奥さんのふみ子さんも80歳。こんなに榑坪に生きていれば、60歳くらいの人は確かに「若いもん」である。
 義作さんの家に入ると目に入るのは、長押(なげし)に並んだたくさんの賞状だ。詳しく見るとすべてシイタケの賞状で、昭和50年代から毎年のように、峡南や県で優秀賞や最優秀賞を取っている。シイタケ栽培は昭和40年代に、試験場で基礎から学んで始めた。何かを始めようと思い、豚も鶏もだめだと考えてシイタケに決めたとのこと。毎日市場に出し、年間出荷量は8~9トンにのぼった。本当にいい値で売れたらしい。毎年賞をとるようなシイタケ、よっぽどいい品だったのだろう。そんないい値のつくシイタケはめったにないと驚かれたそうだ。頼まれてシイタケ作りの話をしに行くようなこともあったけれども、コツは話しても話しきれないくらいある。とにもかくにも、基礎からしっかり勉強し、真剣にシイタケ作りに取り組んだことが、シイタケ名人の勝因のひとつのようだ。
 とはいっても、長い人生の中、シイタケばかりを作ってきたわけではない。若い頃は材木屋を営み、多いときでは7、8人も人を雇う親方だった。切り出した木を架線で道まで出して、売って。とにかくどこにでも出し、当時は出せばどんどん売れた。今ではあべこべに値段は下がるばかりだが。昭和55年頃までやっていた養蚕では、他の家と違い桑も材木屋で使っていた架線で下ろしていたらしい。昭和40年代まではヤギやメンヨウも飼っていて、五箇には組合があった。刈り取った毛を出せば毛糸、さらには服にまでしてくれたそうだ。品物としてもいいものが出ていたらしい。家畜の糞は畑に入れて、えさの草は女衆が取りに行っていた。義作さんは百姓仕事が嫌いで、そういう仕事はすべて奥さんのふみ子さん任せだ。今も家の前に畑があるが、手入れしているのはもっぱらふみ子さん。畑ではフキ、タラ、セリなどの山菜も育てている。
 畑と言えば、町内全域で言われていることだが、最近畑には昔は出なかった猿が出る。イノシシも出る。6月には榑坪で30貫(約110キロ)くらいの大きなイノシシが捕まって、集落中で飲んで食って騒いだそうだ。なにしろバケツにいっぱいの肉ができて、甲府の親戚に送るほどだったらしい。
 さて、話を戻してさらに時代をさかのぼると、義作さんは榑坪に電気が来たときのことも覚えている。昭和元年、義作さんが小学校一年生の頃のことだ。学校には千須和を抜けて一里ばかり。昔は今より雪も降って、3~40センチは積もったから学校に行くのはえらかった(大変だった)。榑坪は水不足の地域でもあって、昔は、子どもは学校から帰ると井戸から水を汲んでの水溜めや薪集めをしたが、風呂を毎日立てることはなかったらしい。しかし、義作さんの家では山から水を引いてきていたので、お風呂が毎日沸かせた。すると、集落の人がお風呂を借りに来たという。今でも義作さんの家のすぐ裏手に水のタンクがあって、義作さんの家以下6軒の水をまかなっているそうだ。
 榑坪の歴史を生きてきた義作さん、10年ほど前にシイタケ栽培もやめ、現在打ち込んでいるのはハチの飼育だ。山に行って巣を取って、箱に入れ、それを増やしてただ今11箱。蜜を売れば高く売れるが、人にあげたり自分でなめたりしているそうだ。蜂蜜は薬になるし(胃ガンまでよくなるそうだ)、なめれば「こりゃあ、うめえ」というわけで、「蜂蜜なめりゃ元気になる」と義作さん。刺されることもよくあるというが、ずいぶん打ち込んでいる様子。しかし、義作さん・ふみ子さん夫婦の元気と仲の良さの根本はどこか別のところ、例えば今までやりがいのある仕事で熱心に働いてきたことあたりにあるのではないかと私は思うのである。

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義作さん

居住地 五箇地区 榑坪
取材日 2002/08/06
取材者名 小野 史