人間働くが薬

息子も去年、定年になっただから(私は)80も越える歳になってるですよ。娘も60になるだよ。よくまぁおばぁさんもこうしておったってるもんだなと笑ったけんど・・・・  おばあさんも忙しい忙しいっていうからそうなってる(元気な)んだよって息子にも(言われた)。  ひとりでぜんぶするだからほんと忙しい。  たまにはねぇ近所のおばあさんたちいるからお茶飲み来いって言われれば行かねばならねぇし、お茶も呼ばれっぱなしじゃあねぇ困るから。また呼ぶにはねぇちったぁ大根のおかずでもなにか煮たりお茶菓子でもこしらえなきゃだし(微笑みながら)


 一人暮らしの道代さんは、息子さんのところから昨日帰ってきたばかり。地元の人でも今朝は寒かったねぇと挨拶し合う冬晴れの昼にお話を伺いました。
 奈良田の短い日(午後3時前には日が山に隠れます)がある暖かいうちに洗濯、掃除などを済ませ、庭の草取りをして、近所で草取りをしていれば手伝いに行き、楽しいご近所付き合いをする。ゆいがあし(ゆうげえし)の心がまだまだ息づく集落で、一日中次は何しようかと寝ても覚めても考えながら働き回る。そんなおばあちゃんも息子さんのところへ行ったときはのんびりとしているのかと思いきや、ひこ(曾孫)と遊ぶのが下手な芝居を見るより面白いと子守役をやってきたようです。

 今の子供達に話すとうそばっかついてと言われると笑って話してくれたのがダムが出来る前、車道もなく孤立した集落の生活。
 昔は川に沿って下る道は無く、今はその一部が丸山林道となっている七里に及ぶ峠(標高差1000メートル近い)を手作りした下駄などを背負って越えて、増穂に出て魚や油、煮干しなどと交換して背負って戻った。二日がかりのため途中の青柳集落で一泊、宿には前もって店で買い求めた米を持参し朝ご飯と昼の弁当を作ってもらったそうです。重くて大変だったので途中まで迎えに行くことになっていて、子供なども一緒にかなりの山に登ったそうです。

 正月も近いのでその時期の話を伺うと山の上の焼畑でとれた蕎麦、稗、小豆などを穀箱と呼ばれる木箱に詰め、蔵にうず高くなるくらい保存して、冬の雪に閉ざされる正月過ぎから春までをしのいだそうです。また、オトコシ(男衆)が山でいっぱい木の枝を打ち払っておいたものをオンナシ(女衆)が今日はこの家の分と決めて皆で山から集め家の周囲に積んでおいて薪にしたそうです。
 おおよそ暮れの25日頃から正月の準備をはじめ、車屋(水車小屋)でそばをひいてシロモノ(粉)にして蕎麦切りを作り、集落の中にある豆腐小屋の大釜で豆を煮て臼でひいて豆腐を作り、28日にはモチアワで粟餅を六臼くらい作ったそうです。商売でオテバリ(忙しい)の家は30日に餅をつくこともあったそうです。30日に松を取ってきてオシンメイ(独特の紙飾り、注連縄飾りのようなもの)を付けて玄関の両側に飾り、今に較べるとたいそう質素な正月だったようです。
 また、当時の奈良田は蒟蒻芋が取れたので、蒟蒻も正月料理に欠かせないものだったそうです。
 ちなみに、いまは取れない蒟蒻芋が栽培出来たのは、西山ダムの完成で出来た奈良田湖の底に沈んだ奈良田七不思議の一つ洗濯池のぬる湯(あたたかい湧き水)のおかげ。ぬる湯によって周囲の地面が温められているので、川石を積んで、土を盛り、その中に蒟蒻芋を埋め、上から落ち葉を被せておくと普通は食用に適する大きさになるまでに3年かかる芋の成長が1年で十分な大きさになったそうです。
 また春に取れる蕨、蕗なども樽に塩漬けにしておき正月頃まで食べたりしたそうです。蕨は取っても2日もすると同じ場所に生えてくるので一番乗りしたものが取れたので近所の様子を探りながら夜も明けない頃から出かけるので苦労したようです。

 最近の冬支度は、大根を塩で押し漬けにして水が上がったら洗って酢と砂糖で漬けておく、餅の汁に入れて食べるために大根の葉は干しておく、白菜を漬けたりしておくことだそうで、一年中何でも手に入る今でも季節感溢れる生活が存分に残っています。

 ダム工事が始まり薪拾いや畑仕事よりもお金になる仕事がいくらでも溢れ、若い衆が働きに出てお年寄りが畑や集落を守るように変わっていった最初の世代である道代さん。そんな道代さんがいまは奈良田を守る元気なお年寄りとして一日中働き回っている姿を見ると、奈良田の良い伝統や習慣を色々な人に伝えていってほしいと切に願います。

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道代さん

居住地 西山地区 奈良田