薬袋のたねやさん

 蚕のたねやさんにお邪魔しました。

 忠男さんの先代は、昭和の初期に京都の高等蚕糸に勉強をしに行き、それまでやっていた普通の養蚕から蚕種製造に。蚕種製造とは養蚕をするための卵を製造すること。原種を交配させ、雑種第一代をつくります。原種は雑種第一代とくらべ、病気にあまり強くなく、繭も良い繭をつくりません。病気になりやすいため、温度・湿度の管理が大変。例えば、桑の葉をあげるタイミングにしても、少ないとお腹を空かせてしまい弱くなり、多すぎると湿度が高く病気が発生しやすい。かといって湿度を下げようと、通風を良くしすぎると桑の葉が早くしなびてしまうそうです。
 また、蚕種は早川町内に売っていました。蚕種は低温にし、ふ化しない様に保存。冷蔵庫のない頃は、洞穴などを利用していたそうです。先代の頃は久田子にあった洞穴を使っていたそうです。そして、養蚕家の都合に合わせ、暖めてふ化させます。また、一般の養蚕とは時期がずれていたのです。それで忠男さんも子どもの頃、桑の葉取りを手伝っていましたが、他の子達が遊んでいる頃に一人で手伝いをしなければならなく、寂しくつらかったとお話していました。昭和12~13年頃、国策などで全国的に各地にあった業者が統合されていき、そのときに水野さんのところも一般の養蚕に切り替えました。

 忠男さん自身は学校の先生をして、養蚕は奥さんと忠男さんのお母さん、妹さんが主にやっていました。妹さんが嫁いでからは、春など大変な時期は養蚕をやっていない近所のお宅のおばさんに頼んで手伝ってもらっていたそうです。奥さんが夜明けと同時に桑切りに行き、切っておくと忠男さんが勤めに行く前に運んでいました。夕方も同様に勤めから帰ってくると桑を運びます。桑畑が家の前と自動車やリヤカーで行ける場所だったのでその点は楽だったそうです。
 昭和60年頃に養蚕はやめたそうです。やめた理由としては、老齢化や外国産が入ってきたり、合成繊維が出てきたりして、労働に見合う報酬がなくなったことなど。楽しかったことはお蚕さんが健康に育っている時、収量が多かった時、お金が入ってくる時。お蚕さんはかわいかったそうです。「もう、桑食っちゃったねー」とか言いながら桑をあげていたそうです。

  • 薬袋のたねやさん

忠男さん

居住地 五箇地区 薬袋
取材日 1999/07/23