養蚕に適した薬袋

 金蔵さんは兄弟が多く東京で電気関係の夜学に行っていました。東京電力に入るつもりでしたが、建設会社に就職。何年か勤めた後、独立して望月建設を始めました。
 以前から家でやっていた養蚕を昭和31年に復員してから習い、始めました。昭和61年まで続けていたそうです。その間には、昭和33年には富子さんと結婚し、昭和35年には娘さんが生まれたりなどいろいろありました。結婚したときの話をしてくれました。「うちらはここで(この家で)結婚式をして、親戚とか近所の人とかが集まって、」「新婚旅行にも行った。甲府とか、石和とか」
 富子さんの実家では養蚕はやっていなかったので、金蔵さんから養蚕のやり方を教わりました。今住んでいる家の1階も2階も、全部使っていました。人間は別棟に寝泊まりし、洋服ダンスなどもその別棟に移していたそうです。桑の葉はひがた山という山の方まで取りに行っていたそうです。このひがた山は桑も良く育つが、小麦もそばも良く育つそうです。今そこは桑畑ではなく、植林されています。年に4~5回養蚕をやっていたそうです。畳をあげて200ボルト電源の飼育する機械をいれて小さな蚕を育てていたそうです。また、貫あたり1万円くらいで、半年は暮らせるだけは稼げるそうです。出荷は望月製糸という増穂町にある業者に繭のまま出荷していました。また、生き物を育てることは特に「薬袋は養蚕に適している」とおっしゃっていました。
 「最近は周りの人のために役立つことをしているんだ」とおっしゃる元気な御夫婦でした。

  • 養蚕に適した薬袋

金蔵さん

居住地 五箇地区 薬袋
取材日 1999/07/23