とある山村生活

 年賀状をお書きになっていたお2人の所にお邪魔しました。
 もともとは大原野に家があり、昭和48年に下ってきました。そのころは、大原野には40軒くらいの家があり、中洲は家数が少なかったそうです。また、新倉には東京電力があり、茂倉には鉱山があったのでにぎやかで、お祭りなども、舞台を作って演芸をしたり、相撲を取ったり、と盛り上がっていました。当時は、集落中で集まっていろいろ練習したりするのが楽しみでもあったのです。
 照健さん利子さんのころになると、旦那さんは勤めに行き、奥さんが林業や農業をやる、という家が多かったようです。畑を耕したり、植林地の下刈をしたりするだけでなく、農産物を背負子で集荷場まで運ぶのも女性の仕事でした。利子さんは、お嫁に来るまで背負子をしょったことも、地下足袋を履いたこともなく、はじめのうちは苦労も多かったけれども、そういう苦労は忘れてしまったし、いろいろな経験をして今は何も怖くなくなった、と笑います。
 かつては、仕事を休むのは、農休みといって7月ごろに地域ごとに日を決めて休む日や、盆、正月、雪の日。それと、女性が働き過ぎということで婦人会が決めた毎月1回のお休みくらいでした。大雪が降ると、解けるまでは農作業ができないので、ゆっくり休むことができ、甘酒やお汁粉をつくって、楽しかったそうです。
 利子さんは、おばあちゃんの店にも週1回出ています。仲間でやっているので、お茶を飲んだり話をしたり、楽しいそうです。手芸なども好きなので、これから大根や白菜を漬けたりするのが終わったらじっくりそういうことに取り組みたいと言っていました。いろいろなことを習ってみたい、という意欲も満々。でも、遠くまで行かなければならないので、「機会があったら」とのこと。
 若いころ目一杯働き、今も楽しみながら畑や勤めで働き、孫や子どもへ野菜やお菓子を送ったりするのを楽しんでいるお2人。よく働き、地域の人との交流を大切にすることが、早川のような地域での楽しみ方であるということが伝わってきました。

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照健さん 利子さん

居住地 三里地区 中洲
取材日 2001/12/06