山の監督
武さんは若い頃、木材会社に勤務していました。山を買い付けたり、飯場を手配したり、木材搬出の指示を出したり・・・。時には山にあがって現場の様子を見ることもありました。
武さんが働いていた頃の山は、林業という一大産業の舞台だったことを考えれば、人々の生活の基盤だったとも言えるでしょう。戦後すぐの頃は、復興の需要で木材がどんどん売れました。それが一段落すると、今度は製紙用のチップ材に利用されるようになりました。しかし、この頃、皆伐式で木を伐ったせいで、最近まで山が荒れていて、大雨が降ると土砂が流出したのだといいます。
戦前は、択伐式で木を伐っていました。これは、一定以上の大きさの木だけを選んで伐採するという方法で、この方法だと、ほうっておけば森は育ちます。そうやって、雨畑の広大な山は長い間人々の暮らしを支えてきたのです。
武さんは、「この辺りはずーっと、山の仕事をする地域だった」といいます。林業の他にも、炭を焼いて出荷もしたし、戦時中までは金山もありました。中でも甲州金山と呼ばれた長畑の奥の金山は、規模も大きく、他の金山が閉山したあとも操業を続けていました。自家発電までしていたのですが、戦時中、金生産などにはお金をかけるなという国の政策で閉山したそうです。武さんのお父さんも、奥沢金山鉱業所の名称で、集落の人たち、また外からも鉱夫を募って鉱石を掘りだしていました。時には、かつて掘られた坑道の跡を見つけることもありました。ある坑道跡では、スズタケを燃した跡を見つけ、そこが、坑道の中で火をたくことで金を採掘していた頃のものだとわかったそうです。
この集落には山神社があり、ほこらの中から「天明元(1781)年正月17日に祭神を迎えた」という記録が出てきました。そのころには少なくとも7~8軒の家があり、山仕事の安全を祈るため、山神社を建てたのだろうと武さんは推測しています。
最近の武さんは釣りを楽しんでいます。遠くには行かずに、その辺の川で朝や夕方釣ってきます。獲物はヤマメやイワナ。子どもの頃やっていたことなので、どういう所に魚がいるかもちゃんとわかっています。「魚が餌を食いに来るのを待つんじゃなくて、魚に餌を食わせるつもりでね。」
地元の山、笊ヶ岳については、とっておきの情報を教えてくれました。「こっから笊へ行く途中に桜の生えている所があるんだけどね。山之神っていって。そこから見える富士山は最高だねー。桜の時期は特にいいね。」はー、見てみたい!!
居住地 | 硯島地区 老平 |
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取材日 | 2002/08/05 |