前を向いてウォーキング

 修さんは、現在68歳で、下湯島では比較的若い方。役場勤めをしていたということもあり、早川町が、かつては1万人以上の人口を擁していたのに、現在は登録人口で1700人にまで減ってしまったことを憂いている。早川町には勤め先がないから若い人が生活できないのは仕方ない。だからといって、「勤め先を作れ」などということを言わないのが修さんだ。
 「これだけ人口が減ってしまっても、寂しいと言っていられない、自分たちで何とかしないといけない」「年を取った人がいかに仲間づくりをして趣味や娯楽を見つけて生きていけるかが大事だ」と考え、実行もしている。
 修さんの楽しみは、旅行や写真、そしてなんと言ってもゲートボール。ゲートボールは上達に時間がかかるスポーツであるらしく、最初のうちは苦労に耐えないといけなかった、と言う。しかし、町内だけでも年に6~7回は大会があり、練習も、雪が積もってでもいない限りは毎日あるということで、熱意が伺える。
 さらに、奥さんの幸江さんともども取り組んでいるのは、ウォーキングだ。これは、修さんが、県の方で推進している事業を下湯島に伝えたということである。修さんは朝と夕方の2回、幸江さんは夕方、毎日歩いている。幸江さんは、お友達と一緒に歩くそうだ。毎回5人は確実に集まるという。以前は、集落内の道を30分くらい歩いたのを、最近は、西山農園まで往復して1時間ほど歩く。みんなで歩いたあとは、誰かが「お茶飲んでいきなー。」と言ってくれるので、お茶を呼ばれておしゃべりをして帰ってくる。
 幸江さんは、「昔、苦労して働いたので、今は好きなことが出来て幸せ。」と言う。では、昔の幸江さんたちの苦労とは?
 まず、戦後の食糧難時代の焼畑。ソバ、アワ、大豆、小豆を作っていく。そして、昭和40年頃になると、焼畑のあとに木を植え、林業を行った。昭和50年くらいまでは木の値段もよく、修さんは、役場が休みの日に山に入って下刈りをしたのである。
 また、昭和33年から43年頃までは、養蚕をしていた。年に3回から4回蚕を飼ったという。春、夏、秋と蚕を育てると、秋の頃には桑を枝ごとは切れなくなり、葉を摘んできたそうだ。その当時、集落から見える一面は桑畑だったという。
 さらに、修さんの家では、昭和町に田んぼを買い、米作りもしていた。ちょうど6月から7月頃は、田んぼの作業と蚕の作業が重なる時期で、本当に大変だったという。
 このような苦労があって、今のお二人がある。修さんは最近、月に2~3回は奈良田の里に温泉に入りに行く。修さん曰く、「奈良田の温泉は日本一だ!入れば入る度に湯の良さを感じる。」
 昔の苦労を乗り越え、人口減少をただ嘆くのではなく自分たちの楽しみを積極的に造り出そうとしている。この生き方の、なんと前向きなこと!

  • 前を向いてウォーキング

修さん

居住地 西山地区 下湯島
取材日 2002/08/25
取材者名 柴田 彩子