製糸工場の思い出

正子さんは、塩之上で息子さんと2人暮らしをしています。

 戦前には、小学校を卒業してから8年ほどの間、沼津の製糸工場へ働きに出ていました。工場では200~300人の若い娘さん達が、朝6時から夕方6時まで働いていて、毎月の休みは第1・第3日曜日でした。そのような生活の中で、休みの日曜日に町へ出て、映画を見たりすることが一番の楽しみだったそうです。
 また、その工場の中には青年学校というものがあり、裁縫、編み物、生け花、お茶などを教えてくれました。その他にも、宿舎の部屋(15~20人)の中では、年上の方達が手紙の書き方などの勉強を教えてくれたそうで、とてもうれしかったそうです。
 戦後になると、正子さんは農作業を行っていたそうです。この辺りではお米が作れないので、夏は麦、秋は豆などを栽培していました。そのため、その頃は麦飯やほうとうで暮らしており、集落でくるまや(水車)を保有して、粉ひきに利用していたそうです。生活も安定してきて、完全にお米のご飯を食べられるようになったのは昭和30年代頃になってからでした。

 そのような体験をされてきた正子さんですが、現在は足腰や目の具合が悪くなってきています。そのため、畑の面積を縮小せざるを得ないそうですが、親戚に枝豆を送ったりすることが大きな喜びです。

  • 製糸工場の思い出

正子さん

居住地 五箇地区 塩之上
取材日 2002/02/26
取材者名 中神 賢人