第2の人生、早川で

 熊本生まれの幸成さんは30歳の時早川へ来た。以前は熊本県庁に勤めていたそうだが、退職後仕事を探しに上京する途中で、伊勢湾台風の災害復旧の手伝いで早川に寄ったのがきっかけだという。身延線から三輪自動車に乗せられて5,6人で早川へ入ってきた。夜で真っ暗だったのでおっかなびっくりしながらだったが、同時に「あっこの奥には何があるかな」という好奇心があった。「そういう気持ちをそそるような仕掛けを観光面で出せれば、もっとここを訪れてくれる人が増えると思う。今は情報があふれているが日本中には、まだまだ知れれていないところもたくさんある。日本は狭いようで広いんだから。」早川において、知られていないということを逆手にとって好奇心をそそるような仕掛けが必要だというわけだ。
 1年半続いた災害復旧の仕事が終わると、多くの作業員は町を去っていったが、建設会社の社長さんから、このまま残って一緒に仕事をしないかと誘われたという。それを受けて、この会社とこの町を盛り上げながら、ここで第2の人生を過ごすと決めた。その後、幸成さんは当時小学校の先生をされていた春枝さんとご縁があった。一人娘は嫁いだので現在は二人暮らし。奥さんはとっても明るい人で、笑顔が絶えない。食事までもてなしてくれた。こんなことは滅多にないからといって、取材風景を写真に撮る。愛知にいる娘夫婦に見せるのだという。
 仕事の話に戻ると、幸成さんは正式に会社の社員となってから現在まで現場監督として、町内の道路、橋、トンネル、ダム、堰堤、学校、公民館、宿泊施設、温泉施設、公園等、ありとあらゆるものをつくってきた。昔の写真を見せて頂いたが、全部見るのに2,3時間はかかるほど、つくってきたものの数は多い。現在は専務という立場にいながらも、現場へ行くという。若い社員に囲まれているから、足腰が動く限り働きたいねぇと話す幸成さんは今年で72歳。戦時中、予科練で鍛えた体はいまだに健在である。仕事の関係上、早川の山という山はほとんど歩いたという。人が歩いた道、獣が歩いた道はすぐに分かるそうだ。人が自分でふみ分けて通るところが、人通りが多くなると道になる。それがふみ分け道である。仕事以外で山を歩くことも好き。七面山にも何度も登った。
 建設業のお仕事は、ものを作るだけではない。災害復旧というのも重要な仕事である。早川は地形上災害の影響を受けやすい。台風で道路が流されると、それを徹夜で直したこともしばしば。特に昭和57年の台風での復旧作業は大変だったという。思えばここへ来るきっかけも災害復旧の仕事。40年以上も住民の生活を支える仕事をされてきた。「このまちの人たちは厳しい生活をしながらもここまで来た。全部一度によくすることは出来ないけれど、ひとつひとつこなしていけば何かに発展していく。今日の日は明日にはない。だから1日1日を大切にしないといけない。そういう気持ちを住民みんなが持ってくれればね。第一歩はあいさつだけど。隣にいる人が誰だか分かるような関係じゃないと。田舎はそうあり続けて欲しい。人間の生き方はそういうもので、それが日本人のいいところ。町おこしをするにしてもそこから始まるから。」

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幸成さん

居住地 本建地区 角瀬
取材日 2002/12/16
取材者名 遊佐 敏彦