大工の教育方針

 「敏彦さんはおもしろい人だ」という評判を聞いていた。訪ねてみると、面白いが真面目な匠だと感じた。「大勢の前では話すのが苦手だ」と言いながらも雄弁に語ってくれた。
 敏彦さんは、大工さん。中学を卒業と同時に父親の旋盤工の仕事を継がずに自らの意志で、大工になるため、埼玉県の和光市の親方の元で修業の日々。掃除から修業は始まり、押し入れづくり、そして、墨つけと難しい作業へと進んでゆく。修業は厳しく、差し金で叩かれることもあったという。親方や先輩から手取り足取り教わるのではなく、彼らの仕事を見て覚えていった。4年間の修業とお礼奉公の1年を経て一人前に。
 そんなある日、親方から一言言われた。「俺の妻は、お前の妻なのか、俺の妻なのか、わからない」
 親方の元で敏彦さんは、ずっと炊事洗濯のすべてを親方の奥さんにお願いしていた。敏彦さんは困った。炊事洗濯は全くやったことがなかったからだ。そこで、前から気になっていた人である、今の奥さんに結婚を申し込んだ。
 夫婦になった二人は、敏彦さんの母親の危篤を切っ掛けに早川町に帰り、そこで新婚生活をはじめた。敏彦さんは町にある工務店で働いた後に独立して、町で最も若い親方になった。町民の敏彦さんへの信頼もあって、町中の家を建てている。敏彦さんは、早川町に合った家を建てることを常に考えている。東京の家よりも梁を太くして、雪にも耐えられるようにしている。また、地鎮祭、棟上げ式、わざと家の一部を完成させないという家の繁栄を祈ったまじないなどの伝統も守っている。常に良いものをという志を持ち、それが高じて、土日に静岡まで行って、宮大工の修業までもおこなっている。三重塔の建立にも立ち合っている。
 この大工としての敏彦さんの心構えが子供達の教育方針にも大きく表れている。子供には好きなことをさせる。子供には常に全力で立ち向かう。この2つが敏彦さんの教育方針。全力で立ち向かう姿勢は、子供とのボーリングや麻雀でも変わらない。敏彦さんの負けず嫌いの性格もあって、子供と常に真剣に勝負をしている。息子さんの友達に混ざって麻雀をすることもあるとか。そして、親子喧嘩も全力。息子さんが、夜に家を飛び出すと、その後を敏彦さんも追う。雨の中、2人のマラソンは続いた。息子さんが根負けして、頭を下げることになった。
 そんな敏彦さんは早川町の自然も愛している。小さい時には川の淵で泳いだ。ウグイ、ハヤ、ヤマメなどの魚を手づかみで捕まえた。今では娘さんをつれて、自然の中を探索することも多いという。この前もカジカを見たことのない娘さんにカジカを見せに行ったという。
 こうしたことが、敏彦さん親子の良い関係を築きあげているようだ。今でも息子さん達とスキーに行くという。
「今度はスノボードを始めようかな。息子はやっているようだし・・・」
 敏彦さんらしいと思った。

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敏彦さん

居住地 都川地区 柳島
取材日 2002/03/04
取材者名 福西 大輔