Iターン
奈良田集落は早川町の一番奥に位置します。そして、今でも多くの民謡・踊り・言語が残っていることから、「秘境奈良田」と呼ばれています。
このような民謡・踊り・言語などは学術的に見ても非常に価値のあるものです。ほかにも、奈良田の伝統・歴史の古さを示す「奈良田の七不思議」があります。この奈良田の七不思議は、孝謙天皇ご遷居の伝説にまつわるもので、貴重なものとなっています。他にも早川町歴史民俗資料館があり、奈良田で昭和30年頃まで行われていた焼畑について非常に詳しく展示してあります。また、この集落の昔の建物の形式は、石置板葺屋根といって、この辺りでは珍しいものでした。この建物は現在、奈良田民俗資料館にその姿を残しています。
他の特徴としては、温泉が挙げられます。他のところでは味わうことの出来ない泉質で、この温泉も奈良田七不思議の一つになっています。
奈良田にはダムがあり、そのダムは昭和31年に出来ました。集落の位置は、そのダムが出来るまで早川の川岸にあり、塊村状の集落でした。ダム工事開始とともに大部分は河岸段丘およびそれに続く斜面に移転していきました。そうして現在の奈良田集落ができ上がったのです。
この地域の人の職業としては、発電所勤務の方が多いです。また、南アルプスや白鳳渓谷の登山客や観光客相手の旅館や商売をする人もいます。
奈良田は他の集落と違うところがいっぱいあります。焼畑の様子、生活の様子なども見ることが出来ます。また、温泉にもゆっくりつかれます。ほかにも、奈良田七不思議を探してみるのいいでしょう。
温泉は早川を上流に向かって上がっていったところ、早川と湯川が合流する辺りにある集落で、集落名からわかるように温泉街です。南アルプス街道沿いに数件の旅館が建ち並んでおり、集落のほとんどが旅館というところです。集落は温泉場と道ヶ島の2つの集落から成っています。温泉場は温泉が湧かなければ、集落になるとは考えられないような狭い土地ですが、崖に張り付くように立体的に建物を建て、西山温泉として観光保養地となっています。また、集落内には町指定文化財の鰐口が2つあります。西山温泉は今から1300年前に藤原真人に発見されて以来、孝謙天皇や武田信玄、徳川家康らも温泉を楽しんだという由緒ある温泉です。南アルプスの山々を眺め、早川や湯川の流れる音を聞きながら温泉に入れば、きっと幸せな気分になれることでしょう。
現在総個数が30戸の上湯島集落は、早川の右岸、南アルプス側の急勾配な傾斜地にある山間型集落である。敷地は石垣を積んだり、斜面を削ったりして作られているために、道とは階段あるいは斜面によって、結ばれている。
また現在の建物は、大半が木造2階建てのトタン屋根だが、かつては茅葺屋根であったため、火事にはとても弱かった。
そこに住む人々は、人柄がよく、近所どうしの繋がりが強い。集落の中央を西から東に流れる「別当の沢」は昔からこの集落を潤してきた。
下湯島は、薬袋から車で約30分くらい。西山温泉の手前にある集落です。西山発電所が建設された頃は発電所で働く人も多く賑わいましたが、発電所が無人化された現在は人口もかなり減ってしまいました。
しかし、下湯島の集落は現在でも活気があり、住んでいる人々も元気です。取材に行ったときも外に出かけている家が多く苦労しました。そんな下湯島でいま流行っているのがゲートボールとウォーキング。ゲートボールは毎日2時から、ウォーキングは4時からと時間もきちんと決まっています。それ以外にも、散歩をしたり野菜や花を育てたり、それぞれに野外で楽しむ時間を下湯島の人たちは持っています。みんなで集まって料理を食べたり、旅行に行ったりと団結力も強いよう。
また、集落を歩くと目につくのが野菜の洗い場。多くの家の玄関先にあって、絶えずきれいな水が流れており、水の豊富な早川町らしい光景になっています。その洗い場の一つで「茂倉うり」が冷やされているのを見かけました。下湯島は茂倉集落と古くから繋がりがあるそうで、茂倉出身の方も何人かみえます。なんでも下湯島と茂倉をつなぐ道があったとか。
下湯島には商店が二つあって、そのひとつ、湯泉商店には話し好きの元気なおばあちゃんがいます。もし下湯島に来ることがあったらぜひ立ち寄ってみては。夏ならあずきバーを買って食べながら、きっと下湯島の楽しい話が聞けることでしょう。
茂倉集落は、南アルプス街道沿いの新倉集落から5km山道を登ったところにある。狭い土地に住宅が密集し、周囲にきつい傾斜の耕地があります。以前は、焼畑と炭焼きで生活し、十谷峠を超えて鰍沢町と交流を行っていました。明治末期の石膏や銀銅鉱脈の発見以後は、鉱山の集落として昭和40年初期まで栄えました。
こういった厳しい条件の集落であるがゆえに住民の連帯意識は非常に強く、相撲大会、盆踊りなどの行事の際は集落の外に住む人々も多数駆けつけ祭りを盛り上げます。
その他「もぐらうり」「もちもろこし」「すばく」といった、珍しい野菜や郷土料理などが残っていることも特徴的です。
新倉
新倉は早川町内で最も大きな集落でした。新倉は佳字で、荒と崖を意味する古い地名です。高校地理の教科書でフォッサマグナの新倉大断層が扱われることがあり、そのため広く名が知られています。
この地区には大正の末期に東京電力の水力発電所が作られ、その従業員の社宅ができ、急速に発展しました。道路沿いの部落に「社宅」という名前が使われていたことにもその面影が感じられます。しかし、近年水力発電の無人化により急激に衰退してしまいました。また昭和28年ごろまでは自動車道の終点になっていたので、木材や物資の中継地として、また西山方面への旅客の宿場町としても栄えました。観光では転付峠への登山口もあります。
中洲は、その名の通り早川の氾濫した後地です。堤防が整備がされた後、大原野などから人が降りてきて住むようになった地域です。以前は大原野の行政区域でしたが、昭和31年に中洲区として独立しました。もともとは人が住んでいるところではなかったので、現在の住人の方々も、早川町の出身でない方も多いようです。
現在は、川の流れの後にできた土地だけに、早川町の中でもめずらしく横に広がっている広い平地を利用して、中心的な稲作地帯になっています。民家の集まる県道沿いには工場や野鳥公園、温泉施設もあります。
三里地区にある大原野集落は新宮川上流の山腹にあり、また塩島集落は県道に沿った集落です。この2つの集落の中間に柿草里部落もあったのですが、現在は転出に伴い全て空き屋となってしまいました。記録によれば大原野部落の人達は塩島周辺に住んでいたのが、天正4年の山崩のために家屋が埋没し、またの災害を恐れて部落ごと現在の大原野に転居したそうです。また、塩島に伝わる伝説では、昔、法師が塩島にやってきて、この里に泊めてもらおうと何軒もの家に尋ねて回ったにも関わらず、全ての家で断られ、遂に泊めてくれる家はなかったそうです。そして法師が暗闇の中へ消えて行ってから、しばらくしてから大きな台風が来て、山は崩れ、人家はほとんど濁流に押し流されてしまって、その後大原野に移ったとのことです。
塩島にある早川北小学校があり、2001年度からは校舎も改築され、プール・コンピューター等の最新の施設もあり、図書室も週2回開放されているので、地元の方々の憩いの場になりつつあるようです。また、大原野から見る星空は絶景なので、是非登ってみるのをお薦めします。
早川集落は、河岸段丘とその上に流れ出る岩殿川の三角瀬の上にできた集落です。伝説によれば、この集落東方の山の上に住んでいた人々がここへ移ってきたと言われています。ここには、縄文期から弥生期にかけての居村遺跡があり、多数の土器片などが発見されました。
この集落は三方の高い山と南を流れる早川に囲まれていたため、交通に大変苦労していました。しかし、長い間早川集落の発展を拒んできた早川の吊り橋も、住民の悲願が実り、ついに昭和53年3月永久橋に生まれ変わりました。その橋は早川集落の発展を祈願して、早栄橋と名付けられました。
今では県道沿いの早川集落の入り口に、集落の人々が経営する「そば処アルプス」があり、観光客などで大変にぎわっています。この店の名物「御殿そば」は早川集落内で採れたそば粉を原料にしており、この土地ならではの味わいがあります。また、そばの刈り入れには集落の人々がみんなで協力し、粉ひきも集落内の水車小屋で行われています。
緩やかな早川の流れに沿う様に、黒桂の集落が立ち並びます。昔は、この流れから取水して、作田が行われていました。川瀬の変化が激しく、感慨には苦労したようです。お隣の早川地区の見栄橋付近まで、さかのぼり取水をした記録が残っています。こうした、取水にまつわる苦労を背景として、農耕には、その分省力化を目的として、馬が多用されました。
養蚕業を営む家々も多くあったそうで、最盛期には、全世帯数36戸中26戸が、携わっています。その為桑園も多く、養蚕業が生活にいまに密着していたかが計れます。また、その養蚕に代わり、昭和40年代頃からは、養豚業が盛んになったようです。
ここ黒桂は、昔からの習わしが今も余り変わらずに多く引き継がれている、早川町でも珍しい集落のひとつです。中でも、「でく転がし」は、全国でも珍しく、小正月に子供達が中心となって行う、道祖神をモチーフとした風習です。お正月の行事には、他にも厄払いをする「ぶっきり」や、火からの安全を願う「やなぎまし」などがあります。
白石は保川が早川に合流する地点から、ほんの少し保川をさかのぼったところにある集落です。名前は保川の河口付近から白玉が産出されていたことに由来する、と云われています。また、山向こう西之宮の枝村です。
集落は県道をはさんで、上の方と下の方の2つに大きく分かれています。上の方へは細く長い坂が伸び、上っていけば白石を保川の流れと共に一望できます。下の方は県道から見渡せます。そこの一番奥に控えしは、町営の養魚場「やまめピア」です。
薬袋方面から県道を北に向かうと、保という大きい集落があります。白石は保の次、橋を渡ってトンネルの手前。大きく綺麗なトンネルに目をうばわれて、見逃してしまうかもしれないから、ゆっくり走ってみてください。
大きな特徴はないけれど、ちょっと見ただけでは分からない、そんなところです。
西之宮は県道沿いの斜面にある集落です。現在、西之宮に住んでいる人たちは、かつて保川と早川の合流点北側にある西之宮平から移住したと言われていますが、それがいつ頃のことかは定かではありません。西之宮には、縄文時代後期から弥生時代にかけての白石西之宮平遺跡があります。また、西之宮のサイカチは目通り2.35メートルあり、町指定の天然記念物になっています。ここは比較的陽当たりが良いので、昼間は畑仕事に精を出す方が多く、お隣近所の交流も盛んです。県道を挟んだ川の対岸には、電線など張られていない綺麗な山の斜面があり、晴れた日にはポカポカとした陽射しと目の前の景色が心地良いところです。
保は都川地区の県道沿いにあり、南面する早川の河岸段丘とはんらん原にできた塊状の集落です。農林業が生活の主体であったと思われますが、大金山の金鉱が開発され昭和中期まで断続的ではありましたが鉱山の里として栄えました。また、現在の県道ができる前の明治二十八年頃から河川が早川を上下して物資輸送をした時があり、保はその物資集散地としてにぎわった時もありました。昭和20年の大火により、建物はほぼ全焼してしまいました。地理的に町のほぼ中央に位置し、町民グラウンド、町民会館、体育館、中学校、農協、郵便局などがあることから、町の中心的集落でもあります。ここの集落には水路が多数走っていて、至る所で水の音を感じることができます。ぜひ、水を感じに保に遊びに来て下さい。
甲斐国志には「臭塩」とあり、自然に噴出する天然ガスの量が多く、臭も強烈であったと考えられる。
隣接する京ヶ島集落と同様、早川の河岸段丘上にできた集落で東側に割合広い耕地があり、昔から農業が盛んであった。昔は養蚕、養豚などが盛んで、畑も桑畑が多かった。現在は人口の減少に伴い田畑も荒れ始めている。
建物の特徴としては、平地面積が大きいためにドマが広くとられ、屋根は茅葺きにトタンを載せている家が多い。養蚕のために屋根を改造した家も多く、建物と生業の強い結びつきを感じることができる。
昭和50年台に温泉を掘り起こし、町営の草塩温泉を始めた。草塩温泉を始めとする南アルプス活性化財団の施設がいくつか点在するほか、総合福祉施設の長寿苑など多くの施設が存在する。
甲斐国志には「経ヶ島」とあり、古来より、柳島の上の座山と経ヶ島は特殊な尊崇関係にある。座山とは、「神の休息する土地」のことで、経ヶ島は「座山を祀る里」である。
隣接する草塩集落と同様、早川の河岸段丘上にできた集落で、南側と東側に早川のはんらん原を利用した割合広い耕地があり、昔から農業が盛んであった。昔は養蚕、養豚などが盛んで、畑も桑畑が多かった。現在は人口の減少に伴い田畑も荒れ始めている。
建物の特徴としては、平地面積が大きいためにドマが広くとられ、屋根は茅葺きにトタンを載せている家が多い。養蚕のために屋根を改造した家も多く、建物と生業の強い結びつきを感じることができる。
ここの八幡日吉神社境内には、県指定天然記念物の夫婦杉があり、集落の寺院である常昌院には、町指定文化財の阿弥陀如来像と地蔵菩薩像とがある。近年、常昌院で行われる六斎念仏も町の無形文化財に指定された。
「ヤナジマ」と訓じ「梁島」と記録する。「魚を捕る梁を仕掛ける好適地」の意味である。たしかに柳島の人々に聞くと、むかしはよく魚が捕れた話がたくさん出てくる。昔は保に属していたそうだが、現在の保からはかなり距離があり、回覧を回す手間などから柳島として独立したとされている。下柳島と上柳島からなり、町内でも最も小さい集落の一つになる。オートキャンプ場などができたことが、最近の大きな話題である。住民の話によると、オートキャンプ場で遊ぶ観光客の中には、たけのこを盗む者がいるらしい。「こっそり盗むのはやめてくれ、ほしいなら住民にひとこといってほしい。そしたらいくらでもとっていいから」とのこと。たしかにキャンプ場と民家が隣接している。これからはキャンプ場の観光客と柳島の住民のよい関係が続いていくといいのだが‥‥。
薬袋と書いて「みない」と読みます。名前は、町に残る薬師堂伝説の御三条の姫君の悲恋物語に由来すると言われています。
早川町が金山や材木で栄えた戦国から江戸時代にかけては奉行所などもあり、この地域では重要な集落でした。
この集落は南向きの扇状地に立地しており日当たりも良好で、早川町の中では最も農耕条件の良い集落といって良いでしょう。集落では明治、大正時代から平成のはじめまで養蚕が盛んに行われており、現在でも30軒ほどある民家は茅葺きの入母屋甲づくりで、養蚕がされていた頃の面影を残しています。平成11年には、当時の記憶を残しておこうと、約一ヶ月に渡ってその再現が行われたりもしました。
当時、畑一面に広がていた桑畑も現在では姿を消し、最近は町の特産品である山ぶどうワイン「恋紫」用のぶどうが、かつての養蚕農家の手によって生産されています。
また集落には町営住宅があり、比較的若い世代が多く住んでいるのも特徴でしょう。休日になると子どもたちの元気な声が、集落中に聞こえます。
このように、この集落にはバリバリ元気に働いている人が多く、平日の昼間の取材はなかなか人が見つからずに苦労しました。
千須和は早川を挟んで小縄の対岸に位置します。千須和の中でも下を柿島、上を千須和と言います。さらに、4,5年前まで田圃だった位置に町営住宅や分譲住宅ができ、新しい集落が誕生する予定です。昔の人はその位置に、少しでも多くの収穫を得ようと考えて、田圃しか作りませんでした。そのため抜群に日当たりが良いです。集落内で高低差がとてもあり、一番下から上まではかなりの距離がありますが、昔の人は当たり前のこととして生活していた様です。千須和の頂上からは富士山が一望できます。見に来て下さい。
榑坪は早川町の左岸山腹に立地する集落。日照条件が良いため畑が多いが、土地のほとんどが斜面であるので水田はない。また、山吹と呼ばれる地区には東京電力の水力発電所があり、そこに勤める人も数多く住んでいる。
古屋は南アルプス街道を途中で右折して、どんどん下っていき川を渡ったところにあります。集落までのアプローチは急坂で狭く、少々緊張しながらハンドルを握ることになりますが、集落に入るとパッと視界が開けます。この解放感が何とも言えず、のどかな雰囲気が体に染み渡ります。
田んぼや畑も比較的まとまっており、農作業が盛んに行われていたことがわかります。話を聞くと、田んぼは昔養蚕のための桑畑だったとのこと。それを戦後、桑を抜いて土をならして田んぼにしたんだとか。今では早川町でも珍しい平らな田んぼが広がっています。
大久保と庶能をあわせて塩之上という。「千須和・榑坪ノ間ニ下ル渓ヲ塩ノ沢ト云云、甲斐国史」とあり、今川家の浪人大野氏の開拓地ともいわれ、「鉱泉・冷泉・岩塩」に関係のある土地である。また大久保は「大窪」に同じで、「窪地」である。かつては早川往還の途中に位置し、県道ができるまでは、人や物の移動において重要な役割を果たしていたと考えられる。大久保集落は昭和36年、大火に見舞われた悲劇などもあるが、いまでも山の上の生活が残っている。ここで育つ大豆はかなりおいしいという。大久保と庶能を結び道の途中からは、オートキャンプ場が遠くに見える。この集落が高い山の中にあることをあらためて感じることができるだろう。
笹走は薬袋または京ヶ島から上っていったところにある。笹走の手前の土捨て場からは、天気のよい日は富士山が下の方までよく見える。こんな高いところにも電線がしっかり通っているんだと思ったら、早川町でもかなり早い時期から電気が通っていたという。南アルプス街道ができる前、笹走を通るみちは京ヶ島と隣町の早川町を結ぶ重要なみちであったからだ。当時は、人も多くにぎやかだったという。今は交通の便は悪いけど、住民の方はじゃがいもや大豆を始めとした野菜作りを楽しんでいる。
やませみ団地は、千須和集落のもともと田んぼだったところに造成された住宅地です。平成12年から分譲が始まったこの住宅地ですが、今では町内の若者、あるいは町外からのIターン者などが移り住み、子どもたちの歓声も聞こえ、早川町内でも最も活気のある場所といえるかもしれません。早川町に移住してみたいという方は、ぜひ足をお運び下さい。ちなみに宅地分譲のお知らせはここをクリック。
高住地区は大きく4つに分かれます。赤沢地区に上っていく途中に5軒ほどあるのが高住区板草里、そこの道を奧まで入っていったところにお寺と3軒の民家がある所が高住区高住。さらに町役場がある所が高住区角瀬(現在では通称「角瀬」は栃原島という別の所を指し、役場付近はただ高住と呼ばれています)、もっと北側で財団の水工場がある所が高住区清水といいます。民家や居住人数は少ないものの、見どころや施設が集中しています。
小縄は本建地区の県道沿いの斜面にある集落です。対岸に千須和集落が見え、斜面から遠く見えるアルプスの眺めは絶景です。この集落は2回程移動したと知られています。最初は生まれ沢という沢の近く、次に山の頂上、そして現在の位置に落ち着きました。昭和の初期は集落の上の方は畑で下の方は田圃を営んでいました。現在は田圃は山に帰り、畑も以前より減ってしまっています。それでも、くねくねと曲がりながら登る坂の所々では生活の風景を感じられます。ぜひ、小縄の一番下の県道から一番上の民家までのんびり歩いて登って下さい。
赤沢集落は、日蓮宗総本山の「身延山」と、かつては修験の霊山と伝えられる「七面山」を結ぶ参道の途中に位置する集落で、古来より諸国から訪れる参拝客を迎える宿場として栄えました。また豊富な木材資源を背景に、杣人や木挽きや大工など、多くの職人が育ち山村文化を形成してきました。
しかし戦後の高度経済成長期の都市への若者流出が、過疎化、高齢化という問題を引き起こし、活気を失った赤沢集落は昔の面影を失いつつありました。
この問題を憂えたUターン者を中心とする集落の若者が、昭和55年に「赤沢青年同志会」を結成し、集落の活性化に取り組み始めました。その後、同志会の発案によって、集落内を通る往還の石畳整備、下水道の建設、お祭りの復活など、精力的な活動が展開されました。そして平成5年に江戸時代から残る講中宿の町並みが、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるまでに至っています。
角瀬から春木川に沿って車で約5分。日蓮宗の霊山七面山の表参道の入口が、新道(通称「羽衣」)の集落です。ここには七面山にお参りする信者さんのための宿坊や旅館、おみやげ物屋さんや食堂が並んでいます。住んでいる人々も、旅館などの経営をしている人や、お上人さん(日蓮宗のお坊さん)など、七面山と深い関わりのある人ばかりです。今回の取材ではお客さんはほとんど見かけませんでしたが、夏の参拝シーズン中は大勢のお客さんでにぎわいます。
ここは、赤沢区新道組ということになっています。距離的にも離れているので一見すると赤沢と関係が深いとは分かりませんが、七面山関係の仕事で親しい人がいたり、親戚があったり、あるいは赤沢出身者がいたりして、つながりの深さがうかがえます。新道という名前も、元々赤沢から七面山登山口まで行くのには、春木川の右岸を行き羽衣橋を渡っていたのですが、その後、途中で左岸に渡ってそちらを行く「新しい道」ができたことに由来します。
新道には2つの滝があります。また七面山の登山口は高い杉木立に覆われています。集落全体が、霊山の入り口の荘厳な雰囲気に包まれていて、身も心も引き締まるような気がする所です。
夏秋(なつあけ)は県道から約3kmほど険しい山道を登った山腹にある集落です。以前は山道のため出入りが非常に困難でしたが、昭和40年代に道路改修により車があがれるようになりました。ここの集落には、町指定の天然記念物「イトザクラ」が学定寺の境内にあります。
夏秋の由来は「夏物成(畑の雑穀)のみを納める村」という説が強いそうです。集落の入り口にある「米無川」との対応からも伺い知ることができます。 差越は、昔は戸数も多かったようですが、今では1世帯まで減ってしまいました。集落へあがる山道も険しく、集落まで舗装されたのは近年のことです。しかし小さいながらも水田を持っています。
差越の由来は「狭い峠の下にある村」だそうです。かつては指越とも記録されています。
初鹿島集落は、早川町の南東部、県道でいえば早川に入って比較的すぐに位置する集落である。旧本建村の集落で、早川を挟んで旧五箇村の榑坪集落と対面しているが、旧村が同じ夏秋や差越、小縄とのつながりが今でも強い。これらの集落へは昔から山中の旧道で行き来していた。また身延町下山との関係も深く、以前は下山まで稲作をしに通っていた。
集落の西側には山林が迫り、そのため冬は日の光が当たらない期間が二ヶ月前後ある。過去にはこの山林の木を薪炭利用あるいは木材利用しており、集落内にはトロッコも走っていた。古くは信長築城の際、城を建てる用材を初鹿島で検定して川を使って出していたという言い伝えもある。
現在の初鹿島集落は、戸数こそ多くはないが、比較的交通の便がよい集落となっている。近年できた初鹿島ダムの上にある滝は、冬に凍ると美しいということで時折見物客が訪れるという。
角瀬は、春木川と早川の合流点付近にある集落です。
昔の春木川、早川は、今よりもずっと水量が多く、雨が降れば氾濫をおこしていたため、この付近には住む人がいませんでした。昭和元年頃、より高い所に住んでいた高住の人達が、この地を開拓し、田んぼや畑を作って移り住みました。その後も護岸工事が進み、移住者が増加しました。
もともとこの場所は、県道と七面山への道との分岐点という交通の要所にあったため、道路の整備と自動車交通の発達とともに賑わいを増しました。
旅館業や飲食業、タクシー業等を営む人が多く、町内の他集落のような農村的な景観はほとんど見られません。早川随一の商業地区です。
室畑は室草里と長畑の両部落を合わせてできた区です。雨畑林道が整備されるまでは、起伏の多い山道を越えなければならない辺地でしたが、昭和44年に林道が開削されて自動車が走るようになってからは、生活は便利になりました。
長畑は昭和初期まで金山があり、今も廃坑や番所の跡などがみられ、かつては「長畑千軒」と言われる程栄えたようです。
室草里にも江戸時代の初期まで、金鉱石や生麩金採取が盛んであり「宝草里」と記録されています。本来は焼畑の里ですが「室」は「物品を保管し保温する建物や穴」のことで、室草里の原義は「倉庫の建てられている焼畑の里」です。
細稲とは、細野と稲又の両部落を合わせてできた区である。細野も稲又も狭い河岸段丘上にできた集落で、ともに小さな塊村をなしている。以前は大部分が農林業であった。主な農林産物は、茶、コンニャク、大豆、ジャガ芋、梅などである。
細野は、本来、普通名詞で『山と山の間につづく細く長い原』の意味である。この土地の上方は、かつて金鉱の産出地であった。
稲又は、古くは『稲胯』とも記録されているが、水田の稲作とは全く縁のない土地である。温泉旅館もあるが、金鉱石・生麩金の産出地であり、文永年間には、この山から雨畑硯の原石が採掘されはじめている。地形が跨のように、『本谷』と『稲又谷』を分割しており、その両方の谷が生麩金の主産地であるから、『両方の谷から生麩金を産出する土地』が原義である。
久田子橋を渡り、そこから壁のような坂道を登り続けること、約10分。山道がぽっと開ける場所がある。そして、何軒かの家と、畑が青空と一緒に目に入ってくる。ここが久田子集落。小さな盆地に立地するこの集落は、冬期の日照時間は4時間と言われる。しかし、訪れたこの日は、まばゆいばかりの夏真っ盛りの日。集落の西から盆地越しに東を眺めると、青空が圧倒的な広さで広がる。どこを見ても険しい山が空を圧迫している早川においてなかなか出会えない景色だ。思わず写真に収めてしまった。「向こうには何があるんだろう」そんな想像力をかき立てる。実際には大島に下る道がある。そのルートは「久田子四十七曲がり」と呼ばれるほど険しい山道である。我々が車でやってきた道が通る前はこの山道を利用するしかなかったのである。
山の中腹にある戸屋と、川の根岸にある下見原、立石、於伊勢とを合わせて出来た区です。戸川という区の名前の由来は、戸屋の「戸」と川根の「川」を合わせたものです。
戸屋の家屋は密集しています。ある家屋からは、富士山を見ることが出来ます。
下見原、立石、於伊勢の家屋は点在しています。どの家屋からも、少し下れば川に出ることも出来ます。下見原には、砂利工場があります。
一つの集落内で、このようにいろいろな顔を持ち、それぞれに魅力ある生活を営んでいます。
馬場は河岸段丘の上にできた集落である。今は人造の雨畑湖によって様変わりしたが、当時は小中学校や役場出張所があり、硯島地区の中心であった。その小学校や役場は、今は湖底に沈んでいる。この雨畑湖周辺には観光施設もあり、県の雨畑湖景観保存地区に指定されている。
馬場からさらに上へ、坂道をのぼり、集落が見えるとそこは『老平』である。斜面に見える、一面の茶畑が印象的である。老平の人たちは、いつも元気に畑仕事をしているのだ。そして老平の人々は誰もが親切である。我々を気持ちよく迎えてくれ、取材に協力してくれた。我々は老平の人々に大変感謝している。 ここは、笊ヶ岳(2629メートル)の登山口でもある。この集落から笊ヶ岳へ登り都川の白石へ出る一泊二日コースが開かれている。そして、バンガローへ行く入口ともなっている。アウトドアを満喫する人が必ず通る集落なのだ。
老平の地名は『雨畑村老平古札書』によれば、『老』のつく場所は、ヤマイヌの出没地であるから、『ヤマイヌ説』などがあるが、山伏峠・御馬谷・七面山・矢立山・笊ヶ岳と、一連の山岳信仰の霊場があり、安部からの『最終目的地笊ヶ岳への入口の里』が地名の由来のようだ。雨畑川の支流奥沢川の河岸段丘上にできた集落で、水田はないが、畑作の盛んなところである。主な農林産物には、こんにゃく、茶、養蚕、シイタケ、養豚などがあった。現在はこんにゃく、茶、野菜が主流である。
北村は雨畑川の河岸段丘上に出来た集落です。隣の原村と併せて本村と呼ばれています。この集落では特に、雨畑地区から産出される硯の原石を利用した硯製造が有名であり、雨畑硯の名前は全国的に知られています。
原村は雨畑川の河岸段丘上に出来た集落です。隣の北村と併せて本村と呼ばれています。名が示すように、硯島地区では最も広々とした地形であり、戸数も多く、林道をはさみ街村状の集落をなしています。
大島集落は護岸工事の進捗に伴って商業地区として栄えたようです。またサラリーマンや日雇い労働者の居住区としても機能していました。区分上は薬袋にあたる中之島への唯一の舗装道路がここから通じています。
現在は林業組合の事務所、および町営住宅が二棟八世帯分、さらに県道沿いに家が建ち並んでいます。また県道、河川それぞれが奈良田・西山方面と雨畑方面に分岐する地点となっています。なお集落内には町指定文化財として水車小屋があります。
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