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No.316
家の縁側で桑の葉に戯れる男児
【撮影時期】1965年頃【撮影場所】三里地区早川
【キーワード】 家の造り 内縁 外縁    
この男の子が手に持っているのは桑の葉である。場所は家の外側にある縁側(外縁,そとえん)である。早川町では養蚕が盛んで、桑の葉は養蚕においてお蚕様の餌であった。この縁側は後の改築で壁と引き戸が付けられて家の内部にある縁側(内縁,うちえん)となった。
No.315
地域活動の拠点「京ヶ島公会堂の竣工式」
【撮影時期】不明【撮影場所】都川地区京ヶ島
【キーワード】 公民館 公会堂 交流 文化活動 青年団 婦人会 竣工式
京ヶ島集落の公会堂(現在の公民館)の竣工式。集落のお金で建てたと思われるが、2階建てで当時の集会所にしては立派な建物だったという。集落みんなが写るために組んだと思われるヤグラの上には、集落の役人らしき人たちが写っている。この公会堂は、総会や臨時総会の他にも様々な活動に使われた。集落内には年代別に子どもクラブや青年団、婦人たちの「おかめ会」、中年男性たちの「京進会」などいくつかのグループがあった。テレビのような自宅での楽しみがなかった当時、交流が何よりの楽しみで公会堂の明かりは頻繁に灯っていた。青年団は月に一回床屋をして子どもの髪を刈ってあげたり、盆・正月に披露する芝居や、獅子舞の練習をしたり、レコードコンサートを開いたりした。集落のみんなが集まる際の合図として、外にある板木(ばんぎ)が鳴らされた。青年団で集まる際はホラ貝が鳴らされたという。
No.314
木材の仮集積所「ヤガラ」
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 木材 林業     
雨畑地区での林業の様子。山中から切り出され集められた材木が置かれている。この場所のことをヤガラという。ヤガラの下には架線やトロッコがあり、それらに材木が積まれ運び出される。木材は上から転がされて貯まり、下から抜き取られて運び出される。
No.313
検尺の様子
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】撮影地区不明
【キーワード】 山梨県林務      
伐採して運び出してきた材木の大きさを測っている。山から運ばれてきた材木はある程度の体積になるようにカスガイと呼ばれるコの字型の釘で止めてまとめられる。写真の一番左の人は検尺だいにんといって手に持っている輪尺というF字型の曲尺(かねじゃく)を用いて木の直径を測る。その値から木のおおよその体積を算出していく。木の断面が正円ではなく楕円型の材木の場合は、正確な数値を出すことはできず、大まかに測られてしまうため、直径をはかる際に伐採の人と検尺の人とで口論のようになることもあった。
No.312
集材機を使って切り出した木材を運び出す様子
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 集材機 林業     
林業で木材を搬出する様子。山から切り出したあちこちに散らばる木材を、集材機で集めている。集材機は、運転手と荷物をトンガケ(結びつける)人とが一日中無線で連絡を取り合い、操作する。運転手とトンガケの間でのもめ事も多かったという。
No.311
インクライン と トロッコ
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 稲又インクライン      
林業におけるインクラインと呼ばれる設備で、トロッコの台車に木を積み、急斜面を上 から下まで下ろした。2車線になっていて、片方の台車が堕ちるエネルギー を利用して、もう片方が登る仕組み。インクラインは県のものだったが、県 の他にも雨畑で林業を行う多くの民間企業が利用した。そのため写真右下に 写る宿泊施設、飯場も多く、人もたくさんいたことからインクラ町と呼ばれた。 インクラインでは一塊ずつ木材を下ろし、下のトロッコに連結して運んだ。
No.310
まとめた材木をトロッコに載せる様子
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 木遣り 林業     
林業で木材を搬出する様子。架線などで運んできた材木をトロッコに移している。手に持っている「ツル」を使って材木を動かすことを木遣りという。 トロッコには材木を一本ずつ乗せていき、一段目ができたら両端にカスガイを打ち込みつなぐ。カスガイはホチキスの針を大きくしたようなコの字型の大釘。一段目の上に材木を積み上げる際は、スリンボという棒の上をスライドさせ押し上げる。 木の大きさを選びながら、体積を体感で測りながら、5〜10本程積んでトロッコ1台分にまとめていく。
No.309
草取りをする女性たち
【撮影時期】1955年〜1960年頃【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 女性 畑仕事 農業    
草取りは主に女性の仕事であった。腰に「ビク」を付け、そこに取った草を入れた。男性はビクを付けることはなく、焼畑の伐開などを担当した。仕事は忙しく、女性は「たび」作りも仕事だったが忙しかったため、ビクに作りかけのたびを入れておき、忙しい合間に針仕事をしていた。寝る間を惜しんで翌日履くための「わらじ」を作ることもあった。もろこしが点在しているのでもろこし畑か。奥に干してあるのはアワと思われる。
No.308
馬方さんと荷運び用の愛馬
【撮影時期】1953年9月【撮影場所】町外で撮影
【キーワード】 馬 動物 運搬    
茂倉集落の馬方(馬を飼う人)の男性と馬が、新倉から峠を越えた静岡県側の二軒小屋に、荷運びでやってきたところ。男性は商店を経営しているため、荷運び用に馬を飼うことにした。茂倉で十谷峠を越え交易していた頃、荷運び用の馬が何頭かいたそうだが、この当時すでに十谷峠は使われていなかったため、集落には田んぼの代かき用の馬が数頭いただけだった。荷運び用にこの馬が山梨市から集落にやってきた日は、集落みんなで宴をするほど歓迎されたという。馬と男性は、田んぼの代かきも、荷運びも、集落の事は頼まれればなんでもした。この日も工事関係の業者に頼まれて、50kgのセメントを左右に2袋ずつ背負い出かけたところのようだ。笹は馬自身の餌である。 また馬は非常に優秀で、鞍を外すと自分で馬小屋に入っていったという。また男性は、軽鉄を自分で打ったり、爪を切ったりという普通は専門の人がすることも自ら行い、馬をかわいがった。 馬が集落にやってきてから7〜8年経ったある日、荷運び中の馬は窪地に落ち重傷を負った。翌朝墜落した場所で亡くなったそうだが、朝5時まで一晩中、火を焚いて集落中の人が介護したという。
No.307
茂倉橋にて馬と
【撮影時期】1955年6月【撮影場所】三里地区新倉
【キーワード】 馬 動物     
新倉集落内の茂倉川にかかっている橋の上で撮影された。写真の男性は左から茂倉で商店を経営している男性、飯富にある木曽屋商店の番頭さんである。荷運び用に使われてた馬も一緒に写っている。この下の方に、茂倉の商店の倉庫があり、商店を経営する男性は荷物を取りに来ていた。倉庫には、焼酎瓶やお菓子、雑貨類が置かれている。木曽屋商店は町内の商店に商品を卸していたため、倉庫に商品を届けにきていたようだ。後方には麦畑が広がっている。
No.306
御節句の準備
【撮影時期】1967年【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 節句 親戚     
孫の一歳の御節句のお祝いの片付けをしている女性。場所は女性の孫の家の縁側。人をたくさん呼び、また大勢の親戚が手伝いに来てくれた。そのため、食器がたくさん置かれている。料理は、甲府から鯛を仕入れたり、他にもタケノコやコブ、豆類など、節句で食べるものを前日から準備した。
No.305
春祭りのあとの青年団の芝居
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 神輿 春祭り 神社    
春祭りの集合写真。氏神様の境内で撮られた。神輿も写っている。はっぴの下には、丸首のシャツと、ズボン下を履いている。神聖な神輿を担ぐために、毎年この日に新しく新調したシャツとズボン下、足袋を下す人もいた。神輿の四隅を背負う責任者が一人づつ四人いて、彼らは袴を履いている。
No.304
春祭りのあとの青年団の芝居
【撮影時期】1968年3月【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 お祭り 行事 青年団 芝居   
國玉神社の公民館で行われた春の大祭(旧暦2月18日)・後祭り(旧暦2月19日)の日の夜に行われる青年団による芝居の写真である。演目は「赤城の子守唄。青年団の芝居に子供が子役として駆り出されることもあった。新倉・早川・大原野などの集落から大勢の人がきた。公民館から人が溢れ、外で見る人もいるくらいだった。青年団員の芝居のための踊りの先生は新倉から徒歩で来ていた。
No.303
大曲がり道作り
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 土木,土方 生活環境整備 道 交通 交易  
新倉から茂倉までの道の途中にある大曲がりでの道をつくる様子。道は、組ごとに担当のエリアが決まっており、分かれて作業を行った。基礎コンクリートの代わりに、腐りづらい松の木を石垣の基礎にして、その上から石を積んだ。各家ごとに、道作りに使用する野石(山の中にある石)を、一軒何個という割り当てに従って集め、初めはそれを積んでいたが途中で足りなくなり、割石屋さん(職人)が切ったケンチ石という石を使ったという。石を積むのは新倉の石屋さんが行った。さらにそれだけでは間に合わず大島や身延の石屋さんも来ていたそうだ。
No.302
茂倉集落遠景
【撮影時期】1953年3月【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 ゆうげえし,ゆうげぇし,結 建設,建造物,建物 土木,土方    
茂倉集落の写真。集落のまわりに畑が広がっている。畑では大麦、小麦、大豆、小豆、キビ、アワ、とうもろこし、サツマイモ、野菜類が栽培されていた。畑では、ほとんど常に作物がつくられていた。ほとんどが主食とされていた大麦の畑。当時食べられていた大麦の麦飯(バクメシ)は、夜に煮て、一晩ふやかし、翌朝再び炊いてやっと食べられるというとても手間のかかるものだった。
No.301
お蔵造り5 棟上げ
【撮影時期】1966年【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 ゆうげえし,ゆうげぇし,結 土木 建物,建設    
ある家のお蔵を建てるために、どん突く(基礎を固める作業)を行い基礎を築いている様子。集落の人たちが集まって作業を行っている。当時、人手が欲しい時などはこのように「ゆうげぇし」(困った時に手を貸し合う労働交換の仕組み)で行っていた。お蔵を立てる際も、毎日集落中の人が「今日は手は欲しいか?」と助っ人の確認にきてくれた。 この敷地は元は傾斜の畑だったため、ツルやじょうれん(鋤簾)で掘って、平らにした。機械はないので人力で堀った。その上に河原で集めてきた玉石を敷き詰める。この頃には、車道が開通していたので、河原の石はトラックであげた。さらに玉石の隙間には「目つぶし」といって砂利を詰める。その上から、重たくて硬い丸太をロープでしばったものを、持ち上げては落とし、持ち上げては落とし、と繰り返して、地面を固く平らにする。役割分担があり、引く(持ち上げて落とす人)、丸太の位置を移動させる人、どこを打つか脇で指示する人などがいる。「ダイオーダイオー」という独特の掛け声で息を合わせ行った。人数も多かったので、1日ほどで作業は終わったそうだ。
No.300
お蔵造り4
【撮影時期】1966年【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 ゆうげえし,ゆうげぇし,結 建設,建造物,建物 土木,土方    
ある家のお蔵を建てるために、屋根に使うコンクリートを大勢でロープを引いて屋根に上げている様子。機械はないため、人力で行う作業がほとんどだった。そのため集落中の人が手を貸してくれたそうだ。この日は、特に人出を必要とする日で多くの人が手伝いに集まった。
No.299
お蔵造り3
【撮影時期】1966年【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 ゆうげえし,ゆうげぇし,結 土木,土方 建設,建造物,建物    
ある家のお蔵を建てている様子。2ヶ月ほどかけて建てた。この日は特に人手が必要な作業のため、集落中の人が集まり手伝った。若い人が中心になって作業を進めた。写真中央にはコンクリを混ぜるミキサーがある。ここで造ったコンクリをバケツに入れ、滑車で屋根の上に引き上げる。滑車を引くのは、機械ではなく人力である。写真中央に一列に並んでいる人たちが、ロープを引っ張り、バケツを引き上げている。写真右上、屋根に上がっている人たちは屋根スラブを打っている(屋根をコンクリでつくっている)。コンクリを練る人、あげる人、こぼす人に、ならす人と役割分担が決まっている。このように大勢の人に集まってもらって作業をする日には、女性たちはお茶ごし(おやつ)の準備が大変だった。お茶ごしとして、さつまいも、じゃがいも、とうもろこしやチンチン焼き(うす焼き)を振る舞った。
No.298
お蔵造り2 セメント作り
【撮影時期】1966年【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 蔵 ゆうげえし,ゆうげぇし,結 土木,土方 建設,建造物,建物   
ある家のお蔵を立てるための作業をしている様子。写真右に写っているミキサーを手動で回し、セメントを作っている。セメントは、お蔵の屋根スラブ用のもの。お蔵をつくった家が、石垣やお墓をつくる専門職だったためミキサーを所有していたが、当時は誰でもミキサーの取り扱いには慣れていた。土方仕事に就く人が多かったこともあるが、そうでなくてもできたという。
No.297
お蔵造り1
【撮影時期】1966年【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 ゆうげえし,ゆうげぇし,結 建設,建造物,建物 土木,土方    
ある家のお蔵を建てるために、どん突く(基礎を固める作業)を行い基礎を築いている様子。集落の人たちが集まって作業を行っている。当時、人手が欲しい時などはこのように「ゆうげぇし」(困った時に手を貸し合う労働交換の仕組み)で行っていた。お蔵を立てる際も、毎日集落中の人が「今日は手は欲しいか?」と助っ人の確認にきてくれた。 この敷地は元は傾斜の畑だったため、ツルやじょうれん(鋤簾)で掘って、平らにした。機械はないので人力で堀った。その上に河原で集めてきた玉石を敷き詰める。この頃には、車道が開通していたので、河原の石はトラックであげた。さらに玉石の隙間には「目つぶし」といって砂利を詰める。その上から、重たくて硬い丸太をロープでしばったものを、持ち上げては落とし、持ち上げては落とし、と繰り返して、地面を固く平らにする。役割分担があり、引く(持ち上げて落とす人)、丸太の位置を移動させる人、どこを打つか脇で指示する人などがいる。「ダイオーダイオー」という独特の掛け声で息を合わせ行った。人数も多かったので、1日ほどで作業は終わったそうだ。
No.296
八幡神社でのお神輿担ぎ前集合写真
【撮影時期】1940年頃【撮影場所】三里地区早川
【キーワード】 春祭り      
早川の八幡神社での、春の氏神様のお祭りである例大祭における神輿担ぎの前の集合写真である。白装束の青年衆8人が神輿をかつぎ、しめ縄で区切られた参道と通りを集会所・公民館のあたりまで歩き、神社へと戻る。両脇の子供達は魔を払う役割を持っていて、顔には墨などでヒゲを生やし、槍や薙刀、槌などもち神輿の先頭と横を歩いていく。2000年頃(平成12年)まで続いたが、人手が足りなくなり、神輿をかついで歩くことはなくなった。
No.295
鯉のぼりと子供達
【撮影時期】1965年頃【撮影場所】三里地区早川
【キーワード】 鯉のぼり 春祭り     
早川集落では、戦後に鯉のぼりの文化が流入してきたが、鯉のぼりを飾る時期は世間とは異なり、春の氏神様のお祭りである例大祭に合わせて掲げられる。(そのときにお雛様も同時に飾る)。右の旗は、武者幟(むしゃのぼり)である。奥さんの実家が、生まれた子が男の子なら武者幟を、女の子なら雛壇を子供に贈ったのである。この例大祭は、昭和30年代までは3月半ば(旧暦2月15日)に行われていたが、祭の主体である子供達の学校に合わせて春休み中に行うなどの変遷を経て、現在では3月の最終日曜日となっている。
No.294
鯉のぼりと子供達
【撮影時期】1965年〜1970年頃【撮影場所】三里地区早川
【キーワード】 鯉のぼり 春祭り     
早川集落では、鯉のぼりは戦後流入した文化であるが、鯉のぼりも雛壇も同時に飾られた。というのも春の氏神様のお祭り、例大祭と同時に節句も祝ったためである。そのため、この春祭り前には集落が賑やかになった。この例大祭の時期であるが、昭和30年代までは3月半ば(旧暦2/15日)に行われていたが、祭の主体である、子供達の学校に合わせて春休みに入ってから行うなどの変遷を経て、現在では3月の最終日曜日となっている。
No.293
臨時早川町役場の入り口
【撮影時期】1956年【撮影場所】本建地区高住(清水、角瀬、高住)
【キーワード】 早川町役場 本建村役場 合併    
昭和31年早川町の旧六ヶ村が合併し早川町になった。その町役場を建設するまでの間、旧本建村役場を仮庁舎として使用していた際の写真である。しかし、ここが役場であったのは1年ほどの間であった。
No.292
早川町役場で働く人々
【撮影時期】1961年頃【撮影場所】本建地区高住(清水、角瀬、高住)
【キーワード】 早川町役場      
早川町役場での総務課の様子である。右手には住民対応窓口・カウンターがあり、右奥は町長室があった。昭和34年の8月に台風7号が南巨摩郡を直撃し、早川でも橋が流されるなどの被害が出たばかりでなく、次の9月には伊勢湾台風による道路寸断被害などがあり、当時はその台風災害復旧・対策関連業務が主な仕事であった。
No.291
ようこそ早川町役場へ
【撮影時期】1960年頃【撮影場所】本建地区高住(清水、角瀬、高住)
【キーワード】 早川町役場 合併     
早川町制が施行され、新しく建設された早川町役場本庁舎の中の様子である。カメラは住民対応窓口・カウンターにある。中央やや右奥の煙突は冬に暖をとるためのコークスストーブである。右手には町長室がある。この庁舎は2015年10月の新庁舎建設に伴い取り壊された。
No.290
早川町役場の脇にかかる永代橋
【撮影時期】1060年頃【撮影場所】本建地区高住(清水、角瀬、高住)
【キーワード】 永代橋      
中央にうつる女性陣は町役場に勤めていた職員である。この吊り橋は永代橋といい、奥が薬袋集落へと通じている。橋の手前左手に早川町役場がある。
No.289
自宅での結婚式
【撮影時期】1963年【撮影場所】都川地区西ノ宮
【キーワード】 結婚式      
当時の結婚式は、まず新婦の実家で挙げられた。新婦の親戚・友人が集まり比較的短時間の結婚式だった。その後徒歩や車で旦那さんの実家へ向かうのだが、途中で親分(二人の相談役となる人)の家に立ち寄って挨拶がてら休憩を取った。そして、新郎の家で親戚・友人とともに長めの結婚式を行った。さらに翌日に、新郎の職場の同僚や友人のための披露宴を行うこともあった。こうした家での結婚式は親戚の協力で成り立つ。親戚は前日から、料理などの準備を行った。
No.288
第一回早川町成年式の集合写真
【撮影時期】1957年【撮影場所】都川地区保
【キーワード】 成人式 合併     
昭和31年に早川の旧六ヶ村が合併をした。翌年の昭和32年1月には、早川町として第一回目となる成年式(現在でいう成人式のようなもの)が行われた。早川町となり、一度に成年を迎える人の数が増えたため、この人数を収容することが可能であった唯一の公共施設である都川中学の体育館で執り行われた。それまではそれぞれの村・集落で成年とした年齢は、数え年か満かでバラバラであったため、一回目は前年に数え年で成年式を行った者も満20歳として参加していたため、人数が多かった。
No.287
青年団の奉仕活動
【撮影時期】1950年頃【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 笊ヶ岳 青年団 硯島 登山道整備   
これは硯島地区の笊ケ岳の山頂で奉仕活動を行う青年団の写真である。風化した看板の代わりに新たな看板を設置している。この青年団だが、構成員は中学卒業から、結婚するまでおよそ15〜25歳の男女であった。こうした奉仕活動をおもに行っていた。