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No.286
青年団の奉仕活動
【撮影時期】1950年頃【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 青年団 笊ヶ岳 登山道整備    
これは硯島地区の笊ケ岳の山頂で奉仕活動を行う青年団の写真である。風化した看板の代わりに新たな看板を設置している。この青年団だが、構成員は中学卒業から、結婚するまでおよそ15〜25歳の男女であった。こうした奉仕活動をおもに行っていた。
No.285
青年団の奉仕活動
【撮影時期】1950年年代【撮影場所】硯島地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 笊ヶ岳 青年団 登山道整備    
これは硯島地区の笊ケ岳の登山道で奉仕活動を行う硯島青年団の写真である。彼らは道標をペンキで示したり、道の簡単な整備をしたりしていた。もし一般の人がやるとしたら、これは命がけの作業であるが、彼らにとっては地元のよく知っている山なので危険を回避しながら作業できたのである。この青年団だが、構成員は中学卒業から、結婚するまでおよそ15〜25歳の男女であった。こうした奉仕活動をおもに行っていた。
No.284
庭先で子守をする姉
【撮影時期】1950年頃【撮影場所】三里地区早川
【キーワード】 家族 子ども 子守り    
妹の世話をする姉の写真である。当時はほとんどの世帯で大家族であり、子どもも多かった。親は日中仕事(農繁期は農業、農閑期は日雇労働)に出ていることが多かったため、必然的に兄弟で助け合いながら子守をしていたのである。そのまま小さい子を背負って小学校・中学校に通う子供もいた。この写真で姉が履いている下駄など、履物はほぼ親たちの手作りであった。藤を削ってベルトをつけるだけの簡易的なものなどは子供達自身でも作って使用していた。
No.281
焚き付けを運ぶ少女たち
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 焚付け 薪 燃料 子ども   
奈良田の小学生で、焚き付けと呼ばれる薪に火をつけるための枝を運んでいるところ。
No.280
肥やしを担ぐ女性
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 サクリクワ 肥やし 奈良田    
肥やし(こい)とサクリクワと呼ばれる、種を播く時にすじをきったり穴をほったりするための鍬を持っている。穴をほったり、土を寄せたりすることを「さくる」ということからこの名前がつけられた。割烹着の下に着物とモンペを着ている。手前の家に書かれた「鶴」というのは、屋号のことで、奈良田集落の人たちはほとんどが同じ名字だったので、場所や職業などから屋号が付けられた。
No.279
農具を持って歩く奈良田の女性
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 ビク イザル 農作業 奈良田   
歌のうまいこの女性は、バケツ・ビク(腰に付ける草などを入れるカゴ)、イザル(米・キビを入れて餅つき前の準備に使う道具でいまも使っている)、箱といった農具を持って歩いている。後ろに見えている「ささいた屋根」の建物はお蔵で、土壁でできている。お蔵の奥に母屋がある。
No.278
奈良田の少女と焚き付け拾い
【撮影時期】1955年1960【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 子ども 燃し木 焚付け モヤ   
写真の中央に写っている女の子は、奈良田の小学生で、焚き付けと呼ばれる薪に火をつけるための小枝を拾っているところ。焚き付けを拾う仕事は子どもの仕事というわけではないが、放課後や休みの日に家の仕事として手伝うこともあった。大人たちが山の仕事帰りに拾うこともあった。奥がダムで、右には植林木が見える。
No.277
もちことすれ違う大工らしき人
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 大工 奈良田     
こちらを向いているのは、食料などの荷物を背負って届けるもちこ。荷物が少ないため、仕事帰りだと思われる。左の男性2名は、ハッピを着てのこぎりのようなものを持っているので、大工かと思われるが、奈良田の人かどうかは定かではない。集落が移転した際は、木を自分で切り、家は大工に造ってもらっていたので、その当時は大工姿の男性を見ることができた。移転先は、自分たちが使っていた畑を平にしてそこに家を建てた。また、畑があまりなかった世帯は、畑のある家に土地を分けてもらった。直足袋を履いているので、古い写真ではないことが想像できる。左下に移っているのは、マンホールか水道または消火栓だと思われる。
No.276
奈良田湖のボート遊び
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 奈良田湖 ボート 遊船    
奈良田湖はかつて水量が多く、ボート遊びを楽しむ人が見られた。塩泉館、湖山荘、大家旅館の3つの旅館のどこかで貸しボートを営業していた。昭和34年頃には台風によって流された禿げた山の土砂によって水量が3分の1程度まで減少してしまい、ボートを楽しむ人もいなくなってしまった。
No.275
ボーリングの梯子がある川下の家
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 カンバ 桜の木の皮 石置き屋根 板葺き屋根   
奈良田集落の日常が見える一枚。右は一般の家で、左の家はまさき家という旅館だった。まさき家の屋根は、カンバと呼ばれる桜の木の皮でふかれていた。皮が飛ばないように平らな石をみっちりしきつめていた。桜の皮は、なかなか腐らないため、重宝されていた。当時、奈良田でカンバを使用していたのはこの一軒のみで、その他の家はカラマツを板に使用し、むなおり(板と板が合わさった部分)にはダケカンバ(岳カンバ)やシラカバを使用していた。写真後方の木のやぐらは、温泉のボーリングで、湧出後は白根館で使われた。
No.274
もちこの女性たち
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 背負子 女性の仕事 奈良田 荷背負い   
この女性たちは、「持子(もちこ)」と呼ばれる食料などの荷物を運ぶ仕事をしていた。ドノコヤ峠を越え、夜叉神峠のあたりの建設会社の飯場に労働者の食料を届けている。上に着ているチョッキがニズリで、足首と腰の部分にゴムを入れたズボンはモンペ。頭には手ぬぐいが当時の流行。女性はよくこの格好をし、その前にエプロンをかけることもあった。
No.273
休憩するもちこの女性たち
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 奈良田 荷背負い 女性の仕事 背負子   
この写真の女性たちは、「持子(もちこ)」と呼ばれ、重い荷物を運ぶ仕事をしていた。この3人は、ダムの建設を行っていた鹿島建設の飯場に食料を運んでいる途中だった。頭に巻いている手拭いは当時の流行りだった。かすりのもんぺもゴムで楽だったので当時は流行っていて、自分で作っていた。もんぺを履くようになる前はタチツケというズボンを履いていた。上はニズリと呼ばれる長いベストのようなものを着て、背負子が背中に擦れて痛くなることを防いでいた。右の女性が手に持っている「たすき」は重い荷物を手で支えるためと、汗を拭くために使用していた。履いている足袋は、戦後配給でもらったものである。エプロンは買った。持子の仕事は日帰りで、弁当を持っていた。同じ日に4、5人の女性たちが同じ現場に行っていた。持子が運ぶのは、車やトロッコが通れないような道だけだった。
No.272
奈良田の温泉宿・塩泉館
【撮影時期】1955年〜1960年【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 奈良田 奈良田湖 民宿    
塩泉館は、大家旅館の隣にかつてあった民宿で、多いときは20人ほどが泊ま部屋が満杯になることもあった。その当時は、観光客であふれ、白樺会の盆踊りがたいへん盛り上がっていた。主な客は登山者で、奈良田の宿が競うように広河内の入口で登山者に客引きを行っていた。その他にも山の仕事関係で泊まる人もいた。その当時は、大家旅館・白根荘・アルプス荘・登起家・塩泉館・野木家・湖山荘といった旅館があった。塩泉館の1階は食堂で、2階が民宿だった。お風呂は沸かし湯。写真のスピーカーは歌謡曲を流して客を呼んでいて、三波春夫などがかかっていた。
No.271
もちこの女性2人
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 女性の仕事 荷背負い 奈良田 背負子   
この二人の女性たちは、「持子」と呼ばれる食料などの荷物を運ぶ仕事をしていた。上に着ているチョッキがニズリで、足首と腰の部分にゴムを入れたズボンはモンペ。女性はよくこの格好をし、その前にエプロンをかけることもあった。
No.270
奈良田の一軒の家
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 古民家 家 奈良田 もろこし 食文化 板葺き屋根 石置屋根
奈良田集落にある家から当時の食生活を見ることができる。軒下に吊るしてあるのはとうもろこしで、干したとうもろこしは粉に挽いて団子にして食べた。とうもろこし以外には、粟やキビなどを水車(つきや)で搗いた。水車は、奈良田にある沖・下・中の3つの組ごとにあり、みんなで共有で使用していた。その他にも、サツマイモとそば粉を練ったネリクリやそば粉だけを練ったソバガキを作って食べていた。奈良田集落では昭和30年まで焼畑農業が行われていて、小豆・蕎麦・粟などを栽培していた。
No.269
奈良田の元気な少年
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 奈良田 子ども 板葺き屋根 トタン屋根   
奈良田集落の少年たちがイタズラの打ち合わせをしている。笹板で葺いた屋根の家は南の方角を向いて建てられている。奈良田集落の多くの家が南を向いていた。右にはトタン葺きの家も見える。昭和35年のダム建設に伴う移転によってトタンの屋根に変える人が多かったが、移転前にも裕福な家ではトタン屋根に変えることができ、当時3、4軒あった。
No.267
奈良田の道祖神
【撮影時期】1955年頃【撮影場所】西山地区奈良田
【キーワード】 奈良田 道祖神     
石が積まれた上に置いてある2つの石は、奈良田の道祖神で、中井戸の水場の北側にあった。現在は、公民館の前に置かれ、昭和35年頃にダムの建設に伴い、この場所に移設された。家の後ろに見えている煙は風呂の煙突で、昔は風呂とトイレは母屋の外に置かれていた。
No.266
茂倉公民館での郷土食作り
【撮影時期】1975年〜1984年【撮影場所】撮影地区不明
【キーワード】 食文化 麦 雑穀 すばく おばく  
教育委員会の呼びかけで、茂倉公民館で集落の女性が郷土料理作りをしている様子。行われていた時期は昭和50年代ごろ。女性が割烹着を着て何人かの班に別れて、蕎麦や、もろこしや小豆の落とし団子(だんす)、麦を茹でて量を増し、そこにお米や小豆を入れた『すばく』『おばく』といった郷土料理を何品か作ったと思われる。写真のような郷土料理作りは何回か行われていた。また、行事などで公民館に多くの人が集まった際にも、このように郷土料理を振る舞っていた。
No.265
十五夜のお供え物
【撮影時期】不明【撮影場所】撮影地区不明
【キーワード】 十五夜 風習     
十五夜のお供え物。撮影時期、撮影場所はいまのところ不明。机の上に置いてあるものは、一番左がブドウ、その横のビンに入っているものがススキ、その手前にあるものが梨やリンゴ、かぼちゃ、そして小皿に入った洗ったお米、その横にさつまいも、手前に里芋や柿、右奥にもろこしの団子、というように秋に収穫されたものが多く並んでいる。お供えするものは、場所や家庭によって様々だったそうだ。 このお供え物は、二階の窓辺の柵の近くに供えられていることが多かった。見つからなければ子どもは勝手に取っても怒られなかったので、女の子が見張りをし、男の子が屋根をつたうなどして、こっそり供えられた食べ物を取りに行っていたという。その後、取ってきた食べ物を焼いたりして食べるのが楽しみだったそうだ。
No.264
「先人のわらじの跡をたずねて」の様子
【撮影時期】1978年9月24日【撮影場所】町外で撮影
【キーワード】 物流 古道 十谷峠    
「先人のわらじの跡をたずねて」の行事の第1回目様子。場所は五開小学校十谷分校の校庭。この行事は教育委員会の社会教育の一環でおこなわれた。役場で参加者を町内から募り、約80人が参加し、多くは茂倉・新倉の方だったという。参加者は主に子育て世代が多かった。かつての生活道路だった山道を歩いた。十谷山道は、茂倉から十谷峠を経て、鰍沢町十谷に至る約15kmの道。午前9時に、茂倉を出発し、大曲―白坂―上の大平―水の尾根―十谷峠―大草理から十谷宿を目指して登った。途中に茂倉の方々が参加者に力をつけてもらうために味噌汁を振る舞った。 一方で、鰍沢町立五開中学校の生徒13人は、一行を迎えるために十谷宿から十谷峠を目指した。峠で出会った一行が十谷宿に到着したのは午後3時半。五開小学校十谷分校の校庭で十谷の望月又重区長、お年寄り、婦人ら30人の住民が拍手で迎えた。参加者には十谷の方々から郷土料理である"みみ"が振る舞われた。町内から大勢の人が参加したため、帰りは十谷から大型バス満員で帰ってきた。「先人のわらじの跡をたずねて」はその後何度かおこなわれていたが、現在ではおこなわれていない。
No.263
ワイヤーしょい(架線しょい)
【撮影時期】1955年前後【撮影場所】撮影地区不明
【キーワード】 女性の仕事 仕事の風景 荷背負い 林業 索道 伝付峠 
林業で木材を搬出するための索道(山から山に荷物を運ぶロープーウェイ)に使うワイヤーを運んでいる様子。ワイヤーは全長1km程と長く、20〜25人が数珠つなぎになって運んだ。ワイヤーを積み40kg近くある「背負子」を杖で支え、休憩しているところだ。茂倉や新倉の人々は夜明け前に出発し、伝付峠を越えて静岡県の大井川流域にある二軒小屋や椹島を目指した。ワイヤーがよじれ、横歩きで峠越えすることもあったという。そこに一週間程滞在し、方々の作業場へ荷を運んだ。男性は別の仕事に就いていたので、このような仕事は主に女性の日雇い仕事だった。峠道には、発電所などの通勤の人、食料を運ぶ人夫、登山者などたくさんの人の往来があった。
No.262
昭和初期の雨畑硯製造組合作業場
【撮影時期】1935年【撮影場所】硯島地区本村
【キーワード】 仕事の風景 共同作業 雨畑硯製造組合 雨畑硯   
村集落にあった硯製造組合の作業場の様子。組合は、原石採掘から、製造、販売までを行った。20名程度の組合員が雇われ、ほとんどが本村の人だった。製造は流れ作業で、石を切る人、彫る人、磨く人、仕上げをする人がいた。職人の中には、東京や千葉の職人のもとに、技術を習いに行く職人も多く、習った技術をここで教えたりもしていたのだろう。作業場は、当時の本村の本通り側を向いていた。通りからは、敷地を囲む薔薇の生け垣の隙間に、職人たちが黙々と作業する様子が窺え、硯を彫る音などが響いていた。組合は、昭和初期に組合長の家族が本村を離れたことを機に解散した。
No.261
早川北中の写真
【撮影時期】1977年〜1978年【撮影場所】三里地区中州
【キーワード】 学校 子ども     
早川北中学校が統合されてすぐの頃に撮影された写真。当時の中学3年生か2年生が映っている。昭和52年に西山中学校と統合され早川北中学校が発足した。現在のヘルシー美里の建物が当時の校舎である。統合して人数が増え、1学年25人程の生徒がいた。西山の生徒はスクールバスで通学していた。
No.260
保熊野天神社神楽殿の落成記念
【撮影時期】1940年11月23日【撮影場所】都川地区保
【キーワード】 記念写真 祭り 神社    
保熊野天神社の神楽殿落成記念で撮られた一枚。11月23日の秋のお祭りでも神楽を舞った。一番左にいる男性はテングの踊りの格好をしている。写真中の文字に、紀元二千六百年の文字が見える。この年に生まれた人には、二や六の文字が多くつけられた。 この神楽殿は昭和20年の火事で焼けてしまった。
No.259
都川消防組の集合写真
【撮影時期】1935年頃【撮影場所】都川地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 集合写真 消防組     
都川消防組の集合写真。旧六ヶ村の消防組織は大正12年8月22日に一斉に設置された。発足当初は消防組合の各支部として組織され、昭和2年に各部落私設消防となり、昭和9年に公設各村消防組になった。昭和16年には警防団に改組されたので、この写真は昭和9から昭和16年までの間に撮られたものと思われる。
No.258
昭和10年度都川尋常高等小学校卒業写真
【撮影時期】1935年【撮影場所】都川地区(撮影集落不明も含む)
【キーワード】 記念写真 卒業式 学校 集合写真   
昭和10年度、都川尋常高等小学校の卒業記念写真。
No.257
茂倉の葬式 家でのお供養6
【撮影時期】1984年8月29日【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 葬式 冠婚葬祭     
昭和59年8月29日に茂倉で行われた葬式の帳場の様子。故人の家の近くの親戚の畑に、段ボールや板を敷いて帳場を設けてた。帳場は集落の役員が勤めた。集落で葬儀をするときには、予め半紙2枚に葬儀委員長、帳場、お坊さん係、旅客係、村客係、炊事係を決めて書いておいた。手伝った人へは、お礼としてお供えの果物などを分けて渡した。この葬儀の時は、集落だけでも100人近くの人が参列したため、うどんを80束、ごはんを3升を8回、240合炊いて用意した。手伝ってくれた方へのお返しには、砂糖や酒、お茶を渡し、後日には「ゆずり」といって故人の服を分けて配った。後に、故人の服ではなく新しい服や毛布を送るようになった。
No.256
茂倉の葬式 家でのお供養5
【撮影時期】1984年8月29日【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 葬式 冠婚葬祭     
昭和59年8月29日に茂倉で行われた葬式の様子。三里村の議員を勤めた方の葬儀で、沢山の花が贈られている。写真右の太鼓は、集落に葬儀を知らせる「寄せ太鼓」を叩くために置いてある。全部で3回叩く場面があり、1番太鼓は家でのお供養の支度が整った時にたたき、それを合図に親戚らはお供養をする家に集まって並んで座りお坊さんが来るのを待った。2番太鼓はお坊さんが家に入って来た時、3番太鼓は棺が家を出てお寺に向かう時にたたかれた。太鼓のそばにはうちわ太鼓と鐘太鼓が置いてある。鐘太鼓は茂倉集落にある曹洞宗のお寺、西方寺のもので、うちわ太鼓は日蓮宗のもの。日蓮宗の檀家の葬儀の時も、西方寺にお願いして、うちわ太鼓と一緒に鐘太鼓を鳴らしながら、家からお寺まで歩くこともあった。
No.255
茂倉の葬式 家でのお供養4
【撮影時期】1984年8月29日【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 葬式 冠婚葬祭     
昭和59年8月29日に茂倉で行われた葬式の様子。葬儀は家から寺、寺からお墓という流れで行われ、これは家で「別れの盃」を交わしている場面。シンズイマキ(親類巻)の人がお酒をつぎ、喪主とお坊さんが盃を交わした。青い衣のお坊さんはこの中で位が一番上の方で、引導を渡す役をすることからこの辺では「インドウオボウ」と呼ばれる。
No.254
茂倉の葬式 家でのお供養3
【撮影時期】1984年8月29日【撮影場所】三里地区茂倉
【キーワード】 葬式 冠婚葬祭     
昭和59年8月29日に茂倉で行われた葬式の様子。三里村の議員を勤めたこともある方のお葬式で、沢山の花やお供え物が贈られている。これは、家での儀式の場面。祭壇を飾った部屋は、ふすまを外して部屋を広くして大勢の人が並べるようにしている。集落でお葬式をあげるときには、「旅座敷」と呼ばれる遠方からの会葬者が休む部屋を用意した。この時は、旅座敷を近所の親戚2軒にお願いして部屋を貸してもらい、主に親戚ではない男女4人ずつくらいで対応をした。旅座敷は、公民館から4人座れる長いお膳を10脚持って来て部屋へ並べ、食事やお茶を出してお客さんを接待した。集落の人達が集まる場所は「村座敷」と呼ばれ、お墓へ納骨をしたら村座敷に集まって、食事やお茶をした。